飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

列島にやって来るまで秦氏は

2013-05-02 19:53:53 | 日本論と宗教論
アルトさんのコメントの後半部分への回答を記事として上げておきます。


以下引用。

>モーゼの直系子孫はアナトリアにとどまり、いつの時期かは不明ですが、シバの女王の家系と結びついているようです。司馬懿仲達のシバはそこからきていると碩学は指摘していました。ディアドゴイと一緒に中国侵入、皮肉なことにエルサレムのレビ族とは異なり強大な秦帝国をユダ族とともに樹立したのでしょう。結局列島に入ってきてから両者は対立した<

もう一度ここで、秦氏の東遷過程を纏めてみましょう。紀元前6世紀初頭の中東。南ユダ王国が新バビロニアに滅ぼされた後、約半世紀ほど、南ユダ王国のユダ族、ベニヤミン族、シメオン族、エフライム族、マナセ族、狭義のレビ族(アーロン系)、広義のレビ族(モーセ系)がバビロンに捕囚された。このバビロンで、かの悪名高きタルムードを編纂するなど、ユダヤのアイデンティティを過剰に意識しながらイスラエル教をユダヤ教に先鋭化しようとするグループがユダヤ人の中に出てきた。対して、周辺諸部族とも融和しながら本来のイスラエル教に留めようとするグループもあり、この先鋭化して行くグループと対立するようになった。前者を陰で操っていたのは恐らくは、旧南ユダ王国のイスラエル社会に巧妙に同化し、侵入していたカナンやアマレクなどからなる悪魔崇拝の邪悪な秘密結社だった。それに対して後者を後援していたのは、恐らくは、イスラエルの形成そのものを企画・指導していたあの「主」と呼ばれる人々が主宰する人類発生以来の最も由緒正しき秘密結社で、世界中の全宗教の根元に当たる宗教を太古以来連綿と運営し続けている、そんな組織だった。どちらの組織も恐らくは、黒人種の秘密結社。最も善なるもの、美なるものは、最も悪なるもの、醜なるものの奥に隠れるものなのだ。

紀元前6世紀中盤に入った頃に、アケメネス朝ペルシャのキュロス王によるバビロン占領とユダヤ人解放が行われた。その際、上の二派の内の前者は、先鋭化したユダヤ教と共にエルサレムに戻って新しいユダ王国を建設しようとした。それに対して後者の中には、前者に付いてエルサレムに帰還しつつも、遥か後にユダ王国内でイスラエル復興運動としての反パリサイ活動を行ったあのイエスを輩出することになる、そんな穏健な人々もいたが、かの邪悪なる前者とそのまま袂を分かち、バビロンとその周辺地域に残って、アケメネス朝ペルシャの統治下、シルクロードを媒介とした東方交易に従事し続ける人たちもいた。彼らは、エルサレムに移った仲間達とも連絡を維持しながら、後にはエッセネ派とか東方の三博士(マギ)とかいった形でイエスの活動とも深い繋がりを持つことになる人々だった。

註:だからこそイエスの宗教には、反パリサイ色やイスラエル復興色だけではなく、東方ペルシャやインドの神秘主義の色合いもまた伴っているのでした。これら三つの一見相矛盾する要素がイエスの宗教の中で不可分のものとして見出されるのは、ひとつには、上のような歴史的背景もあったからなのです。

この最後の人々こそが東ユダヤ人と呼ばれる人々だった。紀元前4世紀。このアケメネス朝ペルシャがアレクサンドロス大王率いるマケドニア軍の侵攻を受けて滅んだ後は、セレウコス朝(紀元前4~3世紀)からバクトリア王国(紀元前3~2世紀)へと変遷する過程で、この人たちは、ギリシア人達との関わりも深めて行くことになった。かの秘密結社の後援の元で諜報活動と交易に従事している限り彼等は、権力者のどんな入れ替わりがあっても常に、権力者側から変わらず重用される存在であり続けたのだった。この彼らが、バクトリアのディオドトス王の時に、彼等が交易を通じて東洋一帯にまで築いていた巨大なネットワークを大いに利用しながら、ディオドトスとその軍団を、中原の西方にあった秦に引き入れ、彼等に秦の王室を乗っ取らせたのだった。この秦がその直後に中原最初の統一王朝となり、ギリシア風のペルシャ文化を伴ったイスラエル文化を、東洋に定着させることになった。

ところで、彼等が中原に入る何百年も前から、北イスラエルの失われた10支族の者たちも、中原に入り、あちこちで国を運営していた。その内の魯は、実はガド族の国であり、あの孔子を排出したことで有名である。儒教はイスラエルの宗教の流れを汲むものだったのだ。この魯と儒家たちは、後の秦帝国成立時には秦始皇との軋轢に巻き込まれ、焚書坑儒として知られる激しい弾圧を受けることになった。この際、彼等の多くが九州北部の吉武に拠点を移した。彼等の国の列島内での呼称は伊勢国であった。

また、秦始皇の後援を受けたかの徐福の引率の元、前後二回に分かれる形で、最初は丹波に、二回目は九州北部に、中原の斉から大規模に移民し、後に物部氏と呼称される人達もいた。彼等は、秦始皇の一団と同じく、東ユダヤ人由来の人達だった。

秦帝国そのものを運営した人たちの中にはまず、秦帝国滅亡後に半島の馬韓に入ってその南東部に新たに辰韓(秦韓)と呼ばれる国家群を形成した後、100年程経った紀元前1世紀に、そこから九州北部に移動した人達がいた。その際、先述したガド族の伊勢国は、この人達の圧力によって九州北部から駆逐され、周防や島根に、更には大和盆地に、移って行った。移って行った大和盆地で移ってくるイスラエル起源の部族をいつも迎え入れるのは、紀元前7世紀に阿波に入って来ていたイザヤと仲間のレビ族達由来の部族を中心に纏まる人々だった。ガド族の伊勢国を九州北部から追い出した秦帝国由来の人達が列島内に創った国の呼称は、後漢から下賜されたことで有名なあの金印に刻まれている「委奴国(いどこく)」であった。この委奴国の人達も暫くしてから、3世紀初頭の頃に、何らかの理由で(調査中)近畿に東遷した。この際、大和盆地にいたガド族が再び、この委奴国の人達によって大和盆地からも駆逐され、この時になって初めて、現在の私達の頭の中で伊勢として定着している地方に移り、その後はその土地に定着して、二度とそこから他所に移ることはなかった。

委奴国の秦氏たちは、かつて辰韓(秦韓)に滞在した経緯から、列島に入った後も辰韓(秦韓)との深い交流を続け、後に列島各地に新羅人が断続的に移り住んで来る橋頭堡ともなった。この人たちが所謂新羅系秦氏なのである。

註:この新羅系秦氏の中にエドム系の秘密結社の組織的な侵入があったと、はぐれメタルファラオさんは想定し、それをエドム系秦氏と呼んでいるのである。このエドム系の秘密結社は、エルサレム陥落前にアンティオキアのキリスト教会の成立に深く関わてその中に潜入していたが、エルサレム陥落後には、中央アジアの遊牧民の中にも潜入し、北アジアのステップロードを通って沿海州に達し、日本海を渡って山陰地方に、更にはそこから新羅にも、入っていたらしい。

彼ら新羅系秦氏が近畿に移った時、大和盆地には、紀元前7世紀に南ユダ王国を脱出し、海のシルクロードを通って四国の阿波に辿り着いた後、大和盆地南西部の葛城氏と婚姻を結んで大和盆地にも勢力を広げていた、あのイザヤと仲間のレビ達由来の一族がいた。この人たちとの間に、新羅系秦氏もこの時、ある程度は協力関係にあったのかもしれない。

この委奴国の秦氏の首長のことを、後の歴史書の中では、大国主と呼んでいるらしい。委奴国の秦氏は、丹波出雲の物部氏の勢力とも同族として協力関係を結び、この勢力が辰韓に進出して新羅を建国する原動力ともなった。山城や亀岡盆地は、この人たちによってこの時代に大規模開発され、亀岡が丹波出雲の中心地となった。

秦帝国の人たちの中には、今述べたような、比較的早くに列島に入って定着していく新羅系秦氏の他に、魏、晋、前秦、西秦、後秦、北魏と変遷する過程でもずっと中原で生き残り続けていく人達もいた。紀元1世紀末のエルサレム陥落を契機に西方から移動し始め、中央アジアを経由して中原に入ってきた原始イエス=メシア教のユダヤ人達も、後に中原で彼等に合流した。この人達は、列島の秦氏とも連絡を取り合っていたが、最終的には北魏の初期の頃(4世紀末)に、「応神天皇」と後の歴史書で呼称されることになる百済王兼倭王の後援の元、百済経由で列島に大規模移住して来た。この人達のことを百済系秦氏と呼ぶ。百済系秦氏は、列島内では当初、新羅系秦氏と非常に緊密な協力関係を結んでいたと思われる。彼等が列島に入り込むことで初めて、山陰地方すら含む西日本全体を網羅する国家連合体ができた。この連合体は、ヤマト(邪馬臺)と呼ばれていた。ヤマトは九州から百済、長門、周防にかけてのプロトヤマトから、四国や近畿まで広がった小ヤマトへと発展した後、最後に山陰と尾張、吉備をも加えた、この大ヤマトにまで発展したのだった。因みに『魏志倭人伝』の邪馬臺国は、これら三つの内の二つ目、「崇神天皇」と「卑弥呼」による小ヤマトのことだった。

ところで、秦氏という呼称は、ある時に列島内で、ある条件に適った氏族の内の希望する氏族の全てに与えられた特殊な名称であった。つまり、イエス=メシア教に改宗することを受け入れたイスラエルやユダヤの部族を最も一般的に秦氏と呼んだのだった。「はた」という発音は「ヤハダ」から、「秦」という表記は秦帝国から来るものだった。従って「秦氏」と呼ばれる氏族には、上述した新羅系秦氏や百済系秦氏以外にも幾つか、別系統が認められはする。それに対して、上述したこれら二つの秦氏の場合、その内部に、ユダ、ベニヤミン、シメオン、エフライム、マナセ、アーロン系レビ、モーセ系レビ、ペルシャ人、マケドニア人が混在していたことは、上に詳述したような変遷過程からも十分に推察される。

・・・以上が秦氏の東遷過程の纏めになります。ここではある一定の構図が整理された訳ですが、その構図上で考えると、「モーセ系レビとユダの列島内における対立」とアルトさんが仰っているのは、私の言い方では、

東ユダヤ人で中原での王朝運営の体験を持ち、ツングース系遊牧民族に紛れ込んでいたエドム系邪教秘密結社の侵入を新羅経由で受けてしまった新羅系秦氏

と、

イエスが東ユダヤ人の影響の元で人類最古の秘教組織の唯一正統な継承者として直接組織した原始イエス=メシア教団をその中核とする百済系秦氏

とが列島内でも対立し、抗争し合うようになった、となるようです。それが最早「ユダとレビの対立」などと言えないことは、アルトさんの上のコメントでも既に受け入れられているようです。

因みに、山城賀茂氏を中核とする新羅系秦氏は、丹波出雲や島根、吉備、河内、新羅との結び付きの元で、後に北朝と称される勢力の中核になったのだと考えられます(藤原北家を含む)。それに対して後者は、新羅系秦氏との抗争で劣勢になった際に、四国の阿波を中心に、東南アジアや江南、琉球、南西諸島、百済、九州南部、紀伊、葛城、志摩、伊勢、尾張、相模、伊豆半島、房総半島、小笠原諸島と非常に広いネットワークを張っていた、遠くはシュメールとエブスに起源を持つ秘教組織で、紀元前7世紀のイザヤと仲間のレビ達の集団もその起源のひとつとして持っている秦氏や忌部氏、葛城賀茂氏の勢力と結び付いて、更には、ヨーロッパで異端とされ、東洋一帯に活動領域を移していたネストリウス派のキリスト教(景教)をも9世紀には唐から計画的に取り入れたりして、後に、南朝と称される勢力の中核になっていったと考えられる訳です(藤原式家を含む)。

この対立は、明治以降も現在までずっと継続しています。例えば、明治天皇として私達がよく知っている天皇は、北朝系の政権である江戸幕府の後援を受けた北朝系の孝明天皇を退けて本物の明治天皇と入れ替わりに天皇となった、南朝系の流れを汲む人物だった。百済王家の流れを汲む人々が拠点をおいてきた長州で代々保存されてきた家系の人物だった。しかし、日韓併合後の大正天皇の時代に李氏朝鮮王朝との朝廷合同が行われた際、北朝系の復権が実現してしまい、欧米の金融偽ユダヤ悪魔崇拝勢力との結託の元で、後には清朝との朝廷合同も行いながら、・・・。今はここまでしか、断言はできません。

>天武天皇と雄略天皇。

この辺の詳細は、今まさに、研究の真っ最中です。

>200-500年の空白の上古代は列島は統一していませんから、大和時代の政権構造を模して空白期間に重ねただけです。万世一系が建前ですから。清少納言の苦心の作です。

確かにそういう面があります。また、多くの人がそのように言及しています。しかし、よーく注意して吟味すると、どうやら、単純な空白の埋め合わせなどではないようなのです。

これを理解するには、何層かの存在のレベルを厳密に区別する必要があると思います。純客観的な実在の層と何回かの加工によって形成された何層かの投影の層の区別です。加工が行われた時点の直前の政治情勢が一部、過去の実在の倭王を中心とする実際の政治情勢の上に重ね合わせるかのように投影されて、その結果、例えば、ある歴史書の中で過去のある特定の「天皇」が持つとされる幾つかの要素の内の幾つかが、あるいは、時にはほとんど全てが、加工時点の直前に活動していたある別の天皇の事績を一部、譲り受けたものとなっているなどしているために、正確な史実の把握のためには、注意深い組み替えの作業が必要になる。・・・精確に表現するとこのように表現できる事柄が、現在あちこちの研究者の頭の中で「単なる空白領域の穴埋め」と劣化し続け、それ自体がまた、新たなタイプの混乱の種となりつつある。例えば、単なる空白領域なのだから、その時代のことは最早、詳しく検討する意味がないなどと言って思考停止してしまっている人が多い。これが私の観察です。思うに、投影が何層に渡ってなされているからと言って、元々の実在の層が完全に消えてしまうわけではないのです。表現を常に意識的に精密にしておかない限り、この種の概念の劣化が思わぬ所で、本当にいろんな形で紛れ込んで来るものなのです。

>(殷→箕子朝鮮→扶余→九州物部の一部→百済について)私はこれがわからなかったのです。これが本当なら私の推理は的中でした。カインこそが邪悪な一族だ。藤原氏の背後にあって、専横をほしいままにしてきた悪魔だ。といいたいところですが、実際はこんな単純なことではないでしょう。それぞれの氏族同士長い間のしがらみに巻かれて。

正確に言うと、殷王朝→箕子朝鮮王朝→扶余王朝→九州物部の一部→百済王朝→南朝天皇家となるのでした。

私は、カインと、レビや新羅系秦氏、藤原北家、源氏などとの関係を、もっと精密に見極めるつもりでいます。

>(「今の天皇家を滅ぼした後で、どこの誰が責任を担っていくのか?私が気にするのは、いつもこれなのです。王殺しは、どんな形であれ、国民の国民としての本質を著しく傷つけてしまうような性質のものなのです。ましてや、天皇陛下は、ただの王などではないのです。軽々しく滅ぼすなどとは、どんな立場からも決して、言えないはずです」という私の発言に対して)否、言えますよ。声を大にして。私が聖武天皇の直系子孫だとしたら。しかもユダヤの秘教組織のカッバーラが施されていた家系だとしたら。父方も母方も斉名太政天皇の血脈だとしたら、自力でカッバーラを解き明かしてわが家系の秘密を解読していたとしたら、こう言えるでしょう。「至急告知するぞ。知りて服し仕えよ。世の人の安堵せしめる泊り瀬の朝倉の高御座(たかみくら)に至急服し仕えよ。汝臣民らよく聞け。この大和の国に、ヤコブの遺言、イエスの遺言によって我はユダヤの王座にある。我こそは全イスラエルの天皇なり」と。

これが本当なら、「これが本当なら」などと表現することすら憚られるような事柄であることを重々承知申し上げた上で、敢えて申し上げると、その時は、我が身を投げ打って微力を御身にお寄せ申し上げたいと思います。

引用以上。