聖徳太子として後に知られるようになる人物は、実は、突厥(トッケツ or トルクル)の可汗(カハン[王])達頭(タルドゥ)でした。この達頭が一派と共に半島や列島に移入してきて、百済では「法王」、倭国では「聖徳太子」=「多利思比孤(タリシヒコ)」と呼ばれるようになったのでした。列島に達頭を招き入れたのが、蘇我氏と秦氏を中心とした勢力でした。当時は半島も列島も、王位は全て、この達頭の親族や息のかかった者達で占められました。このような目で各国の史書を読む立場があり得るのです。
当時の半島や列島では、たとえその土地に所縁のない異郷の人であっても、血統の良さと国際政治の舞台における名前の大きささえあれば、在地の有力者達にスカウトされ、王として君臨できるようになっていました。例えばこの列島においても、当時はまだ「日本」や「万世一系の天皇家」などの排外的な観念がこの世に存在してはいなかったし、多くの勢力の中でひとつが、他を長期に渡って圧倒できる程の財力や軍事力の差を生じさせる可能性もほとんどゼロだったと言えば、今私が述べていることも多少は、通りが良くなるのではないでしょうか?
そもそも、天武天皇まで「天皇」と称されたものなどひとりもなく、それ以前は皆「倭王」あるいは「大王(おおきみ)」でした。血統も、大伴系があるかと思えば、新羅系や高句麗系、百済系もあるなど、情勢の変化に沿って次から次へと変遷していたのでした。「継体天皇」と後に称される人物などは、中央アジアのエフタルの王族が半島や列島に勢力を移した時に倭王となった人物でした。天武天皇に至って初めて、それらすべての系統を「万世一系」として捉え、繋ぎ合わせることが行われたのでした。ここに至ってかつての倭王=大王の全てに天皇としての名前が与えられたのです。この「天皇」や「万世一系」の思想は、天武天皇が列島に持ち込んだ思想でした。天武天皇よりも前の天皇系譜は、史実を素材にした意図的な創作の産物だったのです。半島の『三国史記』も、その下敷きとなった原本が、列島のと同じような手法で作られたものでした。
さて、上に述べた達頭の息子のひとりが、淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)=泉蓋蘇文=高仁武(⇨神武 or 天武[仁武=人+二+武=天武])=伊梨柯須弥(イリカスミ)です。彼は高句麗で、王と大勢の貴族を殺害して新しい傀儡王を立て、自分は大莫離支(テマンニジ[総理大臣のようなもの。最高実力者])となり、半島から列島にかけての世界に勢力を広げようとしていました。
今の我々から見て彼にこのように、呼び名が沢山あることについては、彼が当時複数の国と様々な国の代表として直接関わりを持ち、その際それぞれで名前を使い分けていたことや、それぞれの国がそれぞれの名前をそのまま年代記の中に残したことも理由として挙げられますが、何よりも重要なのは、一部の国で年代記の編纂に彼自身が関わり、その際に自らを複数の人格に分けて登場させたことでしょう。読者として想定できる当時の関係各国の支配層から見て、一般的に不都合と見做されかねないような事件の責任をそれら分身に加担させるなど、大海人皇子及び天武天皇としての、自らの史書内でのイメージを保護しようとしていたからであるようなのです。
この淵蓋蘇文は、高向玄理(たかむこのくろまろ)の養子となり、この高向玄理の導きで列島に入り込むことができたのだそうです。漢王室及び魏の曹操の流れを汲み、元々は半島のあちこちに分散して生活していた漢氏(あやし)の族長だったのがこの高向玄理で、当時は高句麗の高官となって、各国を舞台に国際人として活躍していたそうです。
この高向玄理の先祖には、阿智王(あちおう)なる人がいて、この人が応神天皇=百済の近尚古王(クンチョゴワン)の時に、列島に初めて多くの民を移住させたと言われています。この民は漢氏あるいは阿智部、阿多部と言われていました(これが所謂「秦氏」とどう関わってくるのかはまだ不明です)。
高向玄理は唐にて客死し、その後その子孫が、強い協力関係にあった蘇我本宗家の滅亡など諸般の事情から阿部氏あるいは安倍氏(⇦阿智部)と改姓することになります。後にあの有名な吉備真備が唐に行った時に出くわして問答したという逸話のある鬼は、この高向玄理の亡霊だと言われています。その問答の中には「わしの子孫は阿部と名乗るようになったのか」という言葉も含まれているそうです。また、唐の朝廷で高官にまで上り詰めた阿倍仲麻呂や、賀茂氏から陰陽道の家督の一部を受け継ぎ土御門氏を興した安倍晴明も有名です。平安時代の東北の安倍氏や現代の政治家安倍晋三との結びつきも考慮に入れていかなければなりません。因みに、同じ漢氏でも、王仁を先祖とし、あの坂上田村麻呂や清水寺で知られる坂上氏へと繋がっていく漢氏がいたことも押さえておかなければいけません。
さて、淵蓋蘇文に話を戻すと、山背大王(これも勿論、聖徳太子=多利思比孤=達頭の息子です)や孝徳天皇の時代に列島東部で起こった所謂「蝦夷(えみし)の反乱」や「毛人(えみし)の乱」は、実は、東北にいた縄文人やアイヌの反乱などではなく、この淵蓋蘇文が列島東部に広く拠点を展開していた高句麗系の勢力を率いて大和に攻め入ろうとしたものなのだそうです。ところが何故か、征討将軍の名前は淵蓋蘇文と強い結びつきがあるはずの阿倍比羅夫となっています。恐らくは、この阿部比羅夫は、征討軍の将軍ではなく、反乱軍の将軍だったのではないでしょうか?
ここで、漢氏との結びつきの強かったと言われている蘇我氏のことにも触れておかなければなりません。蘇我氏(ハッティ)は、元々は中臣氏(エブス)と共に中東から海のシルクロードを通って列島に移動してきた列島最古の家系のひとつですが(国東半島の東表国。紀元前16世紀より)、時の移り変わりの中で一旦は列島内の拠点をすべて失い、伽耶や加羅、百済、新羅など半島でのみ勢力を維持していた時期があるそうです。しかし、ある時期からは、大和の葛城氏や物部氏と婚姻関係を結んだり、各地に屯倉(みやけ)と呼ばれる蘇我氏独自の統治機構を設置したりして、列島にも勢力を大きく回復していたそうです。この蘇我氏の拠点の一部がまた房総半島の辺りにも散在している訳です。蘇我氏と漢氏や高向氏、阿部氏、それに高句麗との結びつきも考慮に入れておく必要があるようです。さらには、この蘇我氏の一派が半島では比較的古い時代に金氏となり、淵蓋蘇文との秘密の協力関係の元で統一新羅の王家になっていることも見逃せない事実です。因みに昔氏は、インドや東南アジア、出雲、山陰系の倭人でした(だから因幡の白兎の物語に列島には棲息していない「ワニ」が登場してくる。「うさ」ぎ=宇佐氏=海部氏、「わに」=和邇氏=宗像氏という図式を指摘する研究者もいる)。また朴氏は、北部アジアや出雲、山陰、北陸系のツングース系氏族だったようです。
所謂「蝦夷の乱」あるいは「毛人の乱」の陰の首謀者だった淵蓋蘇文は、大海人皇子(おおあまのみこ)として壬申の乱の時にも再び、あの海部氏(「出雲」物部氏の祭祀族)の勢力圏とほぼ重なる吉野から尾張、信濃、関東、山陰、北陸、山背の勢力を率いて近江や大和に攻め込み、この時は大成功を収めることになります。元々は山陰や北陸のツングース系列島勢力が半島に侵入し立ち上げた高句麗ですが、この時代には逆に広く列島東部が、高句麗の植民地みたいになっていたようなのです。
因みにツングースは、チュルクや蒙古、女真、鮮卑、烏丸、靺鞨、オロチョン、契丹などの諸族に分派し、これら諸族を横に繋ぐ絆として彼ら自身にも自覚されていた形跡のある古い部族の名前です。一部を除いて騎馬もよく行う北方系の遊牧あるいは狩猟民族を総称する言葉です。この自覚に基づいて列島東部でも、列島西部の倭とは異なる勢力として、高句麗と突厥、列島東部諸族(現在のアイヌに繋がる人たちは含まれない)が連携したということなのではないでしょうか?
以上は全て、小林恵子さんの一連の著作を読んでまとめたものです。小林恵子さんは、アジア各国の史書をはじめとする多くの文献を分析し、比較対照して、多くの事実を取り出してきています。その中で、私が読んで信憑性が高いと感じ、その他の情報と照らし合わせても矛盾が生じないと判断したものを、咀嚼ができた時にこのように、このブログの記事として上げています。
当時の半島や列島では、たとえその土地に所縁のない異郷の人であっても、血統の良さと国際政治の舞台における名前の大きささえあれば、在地の有力者達にスカウトされ、王として君臨できるようになっていました。例えばこの列島においても、当時はまだ「日本」や「万世一系の天皇家」などの排外的な観念がこの世に存在してはいなかったし、多くの勢力の中でひとつが、他を長期に渡って圧倒できる程の財力や軍事力の差を生じさせる可能性もほとんどゼロだったと言えば、今私が述べていることも多少は、通りが良くなるのではないでしょうか?
そもそも、天武天皇まで「天皇」と称されたものなどひとりもなく、それ以前は皆「倭王」あるいは「大王(おおきみ)」でした。血統も、大伴系があるかと思えば、新羅系や高句麗系、百済系もあるなど、情勢の変化に沿って次から次へと変遷していたのでした。「継体天皇」と後に称される人物などは、中央アジアのエフタルの王族が半島や列島に勢力を移した時に倭王となった人物でした。天武天皇に至って初めて、それらすべての系統を「万世一系」として捉え、繋ぎ合わせることが行われたのでした。ここに至ってかつての倭王=大王の全てに天皇としての名前が与えられたのです。この「天皇」や「万世一系」の思想は、天武天皇が列島に持ち込んだ思想でした。天武天皇よりも前の天皇系譜は、史実を素材にした意図的な創作の産物だったのです。半島の『三国史記』も、その下敷きとなった原本が、列島のと同じような手法で作られたものでした。
さて、上に述べた達頭の息子のひとりが、淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)=泉蓋蘇文=高仁武(⇨神武 or 天武[仁武=人+二+武=天武])=伊梨柯須弥(イリカスミ)です。彼は高句麗で、王と大勢の貴族を殺害して新しい傀儡王を立て、自分は大莫離支(テマンニジ[総理大臣のようなもの。最高実力者])となり、半島から列島にかけての世界に勢力を広げようとしていました。
今の我々から見て彼にこのように、呼び名が沢山あることについては、彼が当時複数の国と様々な国の代表として直接関わりを持ち、その際それぞれで名前を使い分けていたことや、それぞれの国がそれぞれの名前をそのまま年代記の中に残したことも理由として挙げられますが、何よりも重要なのは、一部の国で年代記の編纂に彼自身が関わり、その際に自らを複数の人格に分けて登場させたことでしょう。読者として想定できる当時の関係各国の支配層から見て、一般的に不都合と見做されかねないような事件の責任をそれら分身に加担させるなど、大海人皇子及び天武天皇としての、自らの史書内でのイメージを保護しようとしていたからであるようなのです。
この淵蓋蘇文は、高向玄理(たかむこのくろまろ)の養子となり、この高向玄理の導きで列島に入り込むことができたのだそうです。漢王室及び魏の曹操の流れを汲み、元々は半島のあちこちに分散して生活していた漢氏(あやし)の族長だったのがこの高向玄理で、当時は高句麗の高官となって、各国を舞台に国際人として活躍していたそうです。
この高向玄理の先祖には、阿智王(あちおう)なる人がいて、この人が応神天皇=百済の近尚古王(クンチョゴワン)の時に、列島に初めて多くの民を移住させたと言われています。この民は漢氏あるいは阿智部、阿多部と言われていました(これが所謂「秦氏」とどう関わってくるのかはまだ不明です)。
高向玄理は唐にて客死し、その後その子孫が、強い協力関係にあった蘇我本宗家の滅亡など諸般の事情から阿部氏あるいは安倍氏(⇦阿智部)と改姓することになります。後にあの有名な吉備真備が唐に行った時に出くわして問答したという逸話のある鬼は、この高向玄理の亡霊だと言われています。その問答の中には「わしの子孫は阿部と名乗るようになったのか」という言葉も含まれているそうです。また、唐の朝廷で高官にまで上り詰めた阿倍仲麻呂や、賀茂氏から陰陽道の家督の一部を受け継ぎ土御門氏を興した安倍晴明も有名です。平安時代の東北の安倍氏や現代の政治家安倍晋三との結びつきも考慮に入れていかなければなりません。因みに、同じ漢氏でも、王仁を先祖とし、あの坂上田村麻呂や清水寺で知られる坂上氏へと繋がっていく漢氏がいたことも押さえておかなければいけません。
さて、淵蓋蘇文に話を戻すと、山背大王(これも勿論、聖徳太子=多利思比孤=達頭の息子です)や孝徳天皇の時代に列島東部で起こった所謂「蝦夷(えみし)の反乱」や「毛人(えみし)の乱」は、実は、東北にいた縄文人やアイヌの反乱などではなく、この淵蓋蘇文が列島東部に広く拠点を展開していた高句麗系の勢力を率いて大和に攻め入ろうとしたものなのだそうです。ところが何故か、征討将軍の名前は淵蓋蘇文と強い結びつきがあるはずの阿倍比羅夫となっています。恐らくは、この阿部比羅夫は、征討軍の将軍ではなく、反乱軍の将軍だったのではないでしょうか?
ここで、漢氏との結びつきの強かったと言われている蘇我氏のことにも触れておかなければなりません。蘇我氏(ハッティ)は、元々は中臣氏(エブス)と共に中東から海のシルクロードを通って列島に移動してきた列島最古の家系のひとつですが(国東半島の東表国。紀元前16世紀より)、時の移り変わりの中で一旦は列島内の拠点をすべて失い、伽耶や加羅、百済、新羅など半島でのみ勢力を維持していた時期があるそうです。しかし、ある時期からは、大和の葛城氏や物部氏と婚姻関係を結んだり、各地に屯倉(みやけ)と呼ばれる蘇我氏独自の統治機構を設置したりして、列島にも勢力を大きく回復していたそうです。この蘇我氏の拠点の一部がまた房総半島の辺りにも散在している訳です。蘇我氏と漢氏や高向氏、阿部氏、それに高句麗との結びつきも考慮に入れておく必要があるようです。さらには、この蘇我氏の一派が半島では比較的古い時代に金氏となり、淵蓋蘇文との秘密の協力関係の元で統一新羅の王家になっていることも見逃せない事実です。因みに昔氏は、インドや東南アジア、出雲、山陰系の倭人でした(だから因幡の白兎の物語に列島には棲息していない「ワニ」が登場してくる。「うさ」ぎ=宇佐氏=海部氏、「わに」=和邇氏=宗像氏という図式を指摘する研究者もいる)。また朴氏は、北部アジアや出雲、山陰、北陸系のツングース系氏族だったようです。
所謂「蝦夷の乱」あるいは「毛人の乱」の陰の首謀者だった淵蓋蘇文は、大海人皇子(おおあまのみこ)として壬申の乱の時にも再び、あの海部氏(「出雲」物部氏の祭祀族)の勢力圏とほぼ重なる吉野から尾張、信濃、関東、山陰、北陸、山背の勢力を率いて近江や大和に攻め込み、この時は大成功を収めることになります。元々は山陰や北陸のツングース系列島勢力が半島に侵入し立ち上げた高句麗ですが、この時代には逆に広く列島東部が、高句麗の植民地みたいになっていたようなのです。
因みにツングースは、チュルクや蒙古、女真、鮮卑、烏丸、靺鞨、オロチョン、契丹などの諸族に分派し、これら諸族を横に繋ぐ絆として彼ら自身にも自覚されていた形跡のある古い部族の名前です。一部を除いて騎馬もよく行う北方系の遊牧あるいは狩猟民族を総称する言葉です。この自覚に基づいて列島東部でも、列島西部の倭とは異なる勢力として、高句麗と突厥、列島東部諸族(現在のアイヌに繋がる人たちは含まれない)が連携したということなのではないでしょうか?
以上は全て、小林恵子さんの一連の著作を読んでまとめたものです。小林恵子さんは、アジア各国の史書をはじめとする多くの文献を分析し、比較対照して、多くの事実を取り出してきています。その中で、私が読んで信憑性が高いと感じ、その他の情報と照らし合わせても矛盾が生じないと判断したものを、咀嚼ができた時にこのように、このブログの記事として上げています。