コメント有難うございます。返信の第1弾を記事として上げさせていただきます。
>平和をもたらすためには来ないと言っている。
あなたが念頭に置いているのは、以下の文章のことでしょう。
「わたしが来たのは地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、私は今強く願っている。とは言え、わたしには、受けねばならない洗礼(バプテスマ)もある。それが終わるまで、わたしは大いに苦しむことになる筈だ。わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っているのではないか?そうではない。言っておくが、私がこうして世に出ることで齎されるのは、平和ではなく、むしろ分裂なのだ。一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれることになる。父は子と、子は父と。母は娘と、娘は母と。しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと。それぞれが皆、対立して分かれる」
この文章における「平和」の対義語は「戦争」ではありません。明確に「分裂」と言っています。私が思うに、イエスの存在によってひとりひとりが、自分の頭で考えるようになる。既存の価値に無批判に寄りかかった行動を取らなくなる。そのことによって既存の秩序が大きく崩れ、混乱が齎される。甘いことを考えて油断していてはいけない。気を引き締めてこの混乱に備えておくことだ。この混乱の中から君達が、新しい秩序を作って行かなければならないのだ。これがこの文章の趣旨になっています。
次のような文章も念頭にあるでしょう。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためなどと思ってはならない。平和ではなく剣をもたらすために来たのだ。わたしは人と人を敵対させるために来た。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに敵対させるためにだ。私について来る者には、自分の家族が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は私にふさわしくない。 わたしよりも息子や娘を愛する者も私にふさわしくない。私に従うと言いながら自分の十字架を担おうとしない者は私にふさわしくない。 私故に命の危険に晒された時、自分の『命』を優先する者は命を失い、私のために『命』を失う者は、 かえって命を得る」
この文章に記述された「剣」とは紛れもなく暴力のことであり、自分の敵にその剣を向けて戦うことを要求しているかのように感じられるかもしれません。しかし、それは違います。よく読んで下さい。この剣は敵からこちらに向けられるものであって、こちらから敵に向けられるものではありません。主の祈りでは「我らが人に赦す如く我らの罪を赦し給へ」とも表現されます。どんな人にも、如何なる暴力も、こちらから仕掛けることは許されていません。そうではなく「迎え入れようとせず、耳を傾けようともしない家があったら、そこを出ていくときに、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」とも指導されています。「私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。こんな言葉もあります。更には、洗礼者ヨハネによる次のような言葉も。
「パリサイ人やサドカイ人が大勢バプテスマを受けに来るのを見た時、ヨハネは彼らに言った。『まむしのすえたちよ、だれが差し迫った神の怒りをのがれるように教えたのか。怒りをまぬがれたいなら、改心にふさわしい実を結べ。『われらの先祖はアブラハムだ。』などと驕り高ぶってはならない。言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのだ。斧はすでに木の根元に置かれてる。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれる」
私は、これらの言葉に成る程と納得し、この言葉に成る程と納得する、そんな自分の理性に従いたいと思っています。
>平和をもたらすためには来ないと言っている。
あなたが念頭に置いているのは、以下の文章のことでしょう。
「わたしが来たのは地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、私は今強く願っている。とは言え、わたしには、受けねばならない洗礼(バプテスマ)もある。それが終わるまで、わたしは大いに苦しむことになる筈だ。わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っているのではないか?そうではない。言っておくが、私がこうして世に出ることで齎されるのは、平和ではなく、むしろ分裂なのだ。一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれることになる。父は子と、子は父と。母は娘と、娘は母と。しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと。それぞれが皆、対立して分かれる」
この文章における「平和」の対義語は「戦争」ではありません。明確に「分裂」と言っています。私が思うに、イエスの存在によってひとりひとりが、自分の頭で考えるようになる。既存の価値に無批判に寄りかかった行動を取らなくなる。そのことによって既存の秩序が大きく崩れ、混乱が齎される。甘いことを考えて油断していてはいけない。気を引き締めてこの混乱に備えておくことだ。この混乱の中から君達が、新しい秩序を作って行かなければならないのだ。これがこの文章の趣旨になっています。
次のような文章も念頭にあるでしょう。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためなどと思ってはならない。平和ではなく剣をもたらすために来たのだ。わたしは人と人を敵対させるために来た。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに敵対させるためにだ。私について来る者には、自分の家族が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は私にふさわしくない。 わたしよりも息子や娘を愛する者も私にふさわしくない。私に従うと言いながら自分の十字架を担おうとしない者は私にふさわしくない。 私故に命の危険に晒された時、自分の『命』を優先する者は命を失い、私のために『命』を失う者は、 かえって命を得る」
この文章に記述された「剣」とは紛れもなく暴力のことであり、自分の敵にその剣を向けて戦うことを要求しているかのように感じられるかもしれません。しかし、それは違います。よく読んで下さい。この剣は敵からこちらに向けられるものであって、こちらから敵に向けられるものではありません。主の祈りでは「我らが人に赦す如く我らの罪を赦し給へ」とも表現されます。どんな人にも、如何なる暴力も、こちらから仕掛けることは許されていません。そうではなく「迎え入れようとせず、耳を傾けようともしない家があったら、そこを出ていくときに、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」とも指導されています。「私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。こんな言葉もあります。更には、洗礼者ヨハネによる次のような言葉も。
「パリサイ人やサドカイ人が大勢バプテスマを受けに来るのを見た時、ヨハネは彼らに言った。『まむしのすえたちよ、だれが差し迫った神の怒りをのがれるように教えたのか。怒りをまぬがれたいなら、改心にふさわしい実を結べ。『われらの先祖はアブラハムだ。』などと驕り高ぶってはならない。言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのだ。斧はすでに木の根元に置かれてる。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれる」
私は、これらの言葉に成る程と納得し、この言葉に成る程と納得する、そんな自分の理性に従いたいと思っています。