昨日、高幡不動尊へ元旦護摩の申し込みに行きましたが、ござれ市が開かれてました……
11月22日・23日、たかはた もみじ灯路が開催されました……
中学生の合唱も ありました……
夕食は「開運そば」で 鍋焼きうどんをいただき
高幡不動尊境内で お抹茶をいただきました😋
11月14日の「世界糖尿病デー」を記念して、昨夕から1週間、
高幡不動尊五重塔がブルーでライトアップされてます。
昨夕は「くちぶえ(口笛)奏者」りょうすけさんのコンサートが五重塔地下であり、
クラッシックや海外・日本の曲が美しい音色で演奏され、心が洗われました。
プロの「くちぶえ」は素晴らしい楽器であることを認識しました。
(土方歳三の銅像)
ふれあい橋まで夫と散歩……
11月になっても富士山🗻は冠雪してませんでした……
久しぶりに小さな駄菓子屋さんに出会いました😀
息子さんの代になってました……
用水路で男子が釣り……バケツの中を見せてくれました🙂
ある時期から、よく聞くようになったことばに
「逃げてもいいんだよ」がある。
それまでは、「逃げるな」「逃げちゃいけない」だった。
なにからも逃げないですべてを正面から受け止めていたら、
ふつうの人間ならこなごなになってしまうだろう。
「逃げてもいいんだよ」が言われるようになって、
「そうか」と気がついて救われた人はたくさんいるだろう。
思えば、ぼく自身も「逃げたい」という場面にいて、
「逃げるな」と「逃げろ」の間で、
揺れ動いたことは何度かあったはずだ。
はずだ、という言い方をしているのは、
そういう場面では、ぼくは人に助言を求めることもなく、
そのときの全力でその場を離れてしまったからだ。
それはもう、身体的な反射に近いものだったと思う。
「これは、ここにいちゃいけない」と本気で感じることは、
おそらくだれにもあるのではないだろうか。
「でも、いなきゃいけない」という理由も考えるだろう。
「逃げても行く場所がない」という不安もあるだろう。
「これは、ここにいちゃいけない」ということは、
ぼくらも弱気哺乳類の末裔なのだから、
ほんとうはわかって感じているのではないか。
信号が点滅するように、なにかブザーが鳴っているように。
そういうときには「いなきゃいけない」だとか、
「行く場所がない」とか考えているだけで危ないと思う。
「逃げてもいいとかわるいとか」選ぶようなものじゃない。
火事になって燃えている部屋で「逃げてもいいか」なんて、
言ってる場合じゃないだろう。
どこのだれに、なにを言われてもいいのだ。
いつのまにか全力で逃げていたということでいい。
罪でも、罰でも、不幸でも、不運でも来ればいい、と、
それくらいの無我夢中で逃げるなら、怖いものだってない。
「逃げてもいいんだよ」ということばがあることは、
とてもありがたいことでもあるのだけれど、
そういうときはもう、意味でも判断なんかでもなく、
掛け声としての「逃げろっ」でいいと思うんだ。
だってね、危ないから逃げるのだから、
落ち着いて考えてごらんなんて聞いてられないよね。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
あえて思い切りよく言ったんだけど、根本的なことだと思う。