七七ブログ

タダの詩人「七七」による人心体実験の記録 

2006-10-23 16:39:39 | 雑文
死というものが絶対的な悪のように扱われる。
はたして死は忌み嫌われるべきものだろうか?
死というものは生命活動の終わりを意味する言葉である。
死という言葉は生命体における現象を表している。
死が現象であるということは、死というものは概念であって実体ではないということだ。
実体でないものはそれ自体単独で悪さをしたりすることはない。
死は他の様々な要素と混じりあっている。
その最大のものが生である。
そもそも誕生することがなければ死ぬことはない。
死ぬためにはまず生まれなければならない。
生命活動という現象を別の角度から見れば生と死になる。
かつて死から逃れた生命体はない。
太陽もいつかは燃え尽きる。星さえも必ず死ぬ運命である。
生と死は常にワンセットであり分離できない。
死を遠ざけようとすれば必然的に生も遠ざかってゆく。
死の実感が希薄なところでは生の実感も希薄であるはずだ。
生を強く実感することができないのは生命体として不幸だといえないだろうか。

個体は生命活動をできるだけ長く維持しようとする本能を持っている。
それは正しいことである。
しかし生命活動は必ず終わるものである。
それを忌み嫌うのは間違いである。
出過ぎた傲慢である。
何よりも生命という恵みに対する侮辱である。
我々には感謝の気持ちが足りなくないだろうか。
余命一年を宣告された人が生の意味に気づき、
人が違ったように生命体としての充実をはかろうとするという話を聞くことがある。
しかし一年後と何十年後と本質的にどこが違うのか。
特に違いはない。我々はもう少し生きたら必ず死ぬのである。

中世ヨーロッパでは「メメント・モリ」(死を思え)という言葉が使われた。
それは死を賛美するのではなく、
より生命を充実させるために使われた言葉だ。
その知恵を受け継いで行きたい。



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2 コメント

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死に対して (b)
2006-11-03 11:19:09
この文章を読み、死から遠いところにいる人間が書いたものであることを感じた。

忌み嫌うということは、死に対する怖れであると思う。
死に対して怖れを抱くことは、人間の最も謙虚な部分であると私は思う。

「余命一年を宣告された人が、人が違ったように~一年後と十年後とどう違うのか」という2行であるが、この文脈から読むと、限りある命の終わりを偶然にも知ってしまった人の最後の行為に対して、「あと1年だろうが10年だろうが同じだろう」と言っているように見える。
おそらく文章的な問題だろうが、このくだりについての寸鉄氏の真意を問いただしたいと思う。


bさんへの返答 (寸鉄)
2006-11-03 12:26:29
コメントありがとうございます。
俺は確かに自分自身の死というものを、
ありありと実感することはできません。
俺はまだ32歳で大きな持病を持っているわけでもありません。
その意味で年老いた人や病気の人に比べて、
死に対する距離感は大変遠いものでしょう。

しかし俺は死をとても恐れています。
若い頃死に接近した個人的な体験から、
常に死のことを意識するようになりました。
死を恐れるということが謙虚なことであり、
また重要なことであるというのは大変同感です。
しかし死を忌み嫌うということとは違います。
先日ある私鉄沿線で葬儀場建設の反対運動が行われているのを見ました。
そしてそれに類する態度を様々な場所で目撃したような気がします。
そんな時俺は生命の尊厳が傷つけられたような気分になります。
近頃若者の凶悪事件が起こるたびによく言われがちな、
生命の軽視ということの別の現れ方をみたような気がして、
非常に危機感を持ったのです。
そのことを自分なりに深く考えてみたいと思いこの文章を書きました。

「余命一年を宣告された人~」のくだりについてですが、
これは誤解を招くような表現だったかもしれません。
「違いはない」というのは、余命一年を宣告された人と
余命一年を宣告されていない人(俺を含む大多数の人々)
の違いのことをさしたつもりでした。
「限りある命の終わりを偶然にも知ってしまった人の最後の行為」が
いかに重要であるかということを強調しようとしたのですが、
文章力の不足により誤解を招いてしまいました。申し訳ありません。

重ね重ねですがコメントを下さってありがとうございます。
文字だけのコミュニケーションの危うさは認識していたつもりでしたが、
自分の認識の甘さを知ることができました。
より丁寧で誠実な文章を心がけて行きたいと思います。

寸鉄

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