死というものが絶対的な悪のように扱われる。
はたして死は忌み嫌われるべきものだろうか?
死というものは生命活動の終わりを意味する言葉である。
死という言葉は生命体における現象を表している。
死が現象であるということは、死というものは概念であって実体ではないということだ。
実体でないものはそれ自体単独で悪さをしたりすることはない。
死は他の様々な要素と混じりあっている。
その最大のものが生である。
そもそも誕生することがなければ死ぬことはない。
死ぬためにはまず生まれなければならない。
生命活動という現象を別の角度から見れば生と死になる。
かつて死から逃れた生命体はない。
太陽もいつかは燃え尽きる。星さえも必ず死ぬ運命である。
生と死は常にワンセットであり分離できない。
死を遠ざけようとすれば必然的に生も遠ざかってゆく。
死の実感が希薄なところでは生の実感も希薄であるはずだ。
生を強く実感することができないのは生命体として不幸だといえないだろうか。
個体は生命活動をできるだけ長く維持しようとする本能を持っている。
それは正しいことである。
しかし生命活動は必ず終わるものである。
それを忌み嫌うのは間違いである。
出過ぎた傲慢である。
何よりも生命という恵みに対する侮辱である。
我々には感謝の気持ちが足りなくないだろうか。
余命一年を宣告された人が生の意味に気づき、
人が違ったように生命体としての充実をはかろうとするという話を聞くことがある。
しかし一年後と何十年後と本質的にどこが違うのか。
特に違いはない。我々はもう少し生きたら必ず死ぬのである。
中世ヨーロッパでは「メメント・モリ」(死を思え)という言葉が使われた。
それは死を賛美するのではなく、
より生命を充実させるために使われた言葉だ。
その知恵を受け継いで行きたい。
はたして死は忌み嫌われるべきものだろうか?
死というものは生命活動の終わりを意味する言葉である。
死という言葉は生命体における現象を表している。
死が現象であるということは、死というものは概念であって実体ではないということだ。
実体でないものはそれ自体単独で悪さをしたりすることはない。
死は他の様々な要素と混じりあっている。
その最大のものが生である。
そもそも誕生することがなければ死ぬことはない。
死ぬためにはまず生まれなければならない。
生命活動という現象を別の角度から見れば生と死になる。
かつて死から逃れた生命体はない。
太陽もいつかは燃え尽きる。星さえも必ず死ぬ運命である。
生と死は常にワンセットであり分離できない。
死を遠ざけようとすれば必然的に生も遠ざかってゆく。
死の実感が希薄なところでは生の実感も希薄であるはずだ。
生を強く実感することができないのは生命体として不幸だといえないだろうか。
個体は生命活動をできるだけ長く維持しようとする本能を持っている。
それは正しいことである。
しかし生命活動は必ず終わるものである。
それを忌み嫌うのは間違いである。
出過ぎた傲慢である。
何よりも生命という恵みに対する侮辱である。
我々には感謝の気持ちが足りなくないだろうか。
余命一年を宣告された人が生の意味に気づき、
人が違ったように生命体としての充実をはかろうとするという話を聞くことがある。
しかし一年後と何十年後と本質的にどこが違うのか。
特に違いはない。我々はもう少し生きたら必ず死ぬのである。
中世ヨーロッパでは「メメント・モリ」(死を思え)という言葉が使われた。
それは死を賛美するのではなく、
より生命を充実させるために使われた言葉だ。
その知恵を受け継いで行きたい。