だから、どんな場合も、「読む」は「書く」に先行している、とぼくは考える。
その最初の「読む」を包み込むように、「書く」がやって来る。もちろん、やがて、ぼくたちは、「読む」と「書く」を激しく往還することになるだろう。
やがて、最初の「読む」の周りに、少しずつ、「書く」の伽藍が築き上げられてゆくだろう。そのことによって、最初の「読む」は、見えなくなってゆくだろう。だが、起点は、確かに存在していたのである。
どんな「読み」をしようと「読者」は自由だ。そして、正しい「読み」などというものがないことも、自明のことだ。それらを認めた上で、なお、ぼくは「読む」ことによって前進したい、と考える。「読む」ことは、特別なことだ、と考えたい。「読む」ことは、人を、遠くに連れてゆくことができる、と考えたい。
その時、「読む」ことと「書く」ことにちがいはないのだ。「読む」ことを欠いて「書く」ことはないし、その逆に、「書く」ことなしに、「読む」こともない。
このことが、正確に伝わればいいとぼくは思う。
さよなら、ニッポン/高橋源一郎
前作 ニッポンの小説からの続きです。面白かった。若干、まとまりのないように感じるが、前作を読んでいれば、著者の意見は問題なく理解できると思います。
僕は、読む力が全てであると信じているのです。
研究においても、仕事においても、人生においても。
世間やマスコミの意見に流されてはいけないのです。
自分が読書を通じて、自分自身で辿った思考こそ、人間であることの証明であると思います。
これと同時に、適切な本を選ぶ能力も人間として大切なことであると思います。
いつだって、読書は僕に光を与えてくれる。
その最初の「読む」を包み込むように、「書く」がやって来る。もちろん、やがて、ぼくたちは、「読む」と「書く」を激しく往還することになるだろう。
やがて、最初の「読む」の周りに、少しずつ、「書く」の伽藍が築き上げられてゆくだろう。そのことによって、最初の「読む」は、見えなくなってゆくだろう。だが、起点は、確かに存在していたのである。
どんな「読み」をしようと「読者」は自由だ。そして、正しい「読み」などというものがないことも、自明のことだ。それらを認めた上で、なお、ぼくは「読む」ことによって前進したい、と考える。「読む」ことは、特別なことだ、と考えたい。「読む」ことは、人を、遠くに連れてゆくことができる、と考えたい。
その時、「読む」ことと「書く」ことにちがいはないのだ。「読む」ことを欠いて「書く」ことはないし、その逆に、「書く」ことなしに、「読む」こともない。
このことが、正確に伝わればいいとぼくは思う。
さよなら、ニッポン/高橋源一郎
前作 ニッポンの小説からの続きです。面白かった。若干、まとまりのないように感じるが、前作を読んでいれば、著者の意見は問題なく理解できると思います。
僕は、読む力が全てであると信じているのです。
研究においても、仕事においても、人生においても。
世間やマスコミの意見に流されてはいけないのです。
自分が読書を通じて、自分自身で辿った思考こそ、人間であることの証明であると思います。
これと同時に、適切な本を選ぶ能力も人間として大切なことであると思います。
いつだって、読書は僕に光を与えてくれる。