魔法の弾丸

自己に対する選択毒性

研究者とは

2009-09-25 12:28:51 | Weblog
歴史的な見方というのは、いきおい、国家や社会のなかに生きる自分という人間が、たとえば、なぜ三一0万人もの人が犠牲となる戦争を日本は行なってしまったのか、なぜ第一次世界大戦の悲惨さに学ぶことなく戦争は繰り返されたのだろうか、という「問い」に深く心を衝き動かされたときに初めて生じるものなのだと思います。つまり、悩める人間が苦しんで発する「問い」の切実さによって導かれてくるものだと私には思えるのです。


ある研究者は、なぜ、ある「問い」を解かねばならないと考えて研究を始めたのか、そのような「問い」は、なぜ解くにあたいする問題なのか。多くの研究者が自らの「問い」と格闘した結果の集大成が教科書になる、そのような実感が持てる教科書があってもいいわけですね。

それでも、日本人は「戦争」を選んだ/加藤陽子


歴史を科学的な分析で客観的に研究する手法で書かれた本。
さすが東大文学部の教授と思わせる明晰な論理構成と文章力に唸った。


高校生の特別講義として行なわれた内容は、事実の直線的な羅列の暗記科目としての歴史ではなく、当時の西欧を中心とした世界情勢と開国間もない日本の置かれた立場を踏まえつつ、歴史的な事柄を起こした人物たちの選択と葛藤を、様々な文献をもとに想像しながら、歴史全体の流れに存在する普遍的な理論を導く歴史学だった。

日本の歴史、特に日本近代史は、痛みを体験した世代が存在するため、主観的な立場から感情的に語られることが多いように思います。

そのためか、なぜ起こったのか?という「問い」に対して論理的で妥当な解答を導けずにいるのではないだろうか。だから、それに対する内省も生まれてこないように思います。


サイエンスの基本は、主観的な立場を可能な限り除外するということにあります。
それと同時に、論理を組み立てる直線的な思考と、サイエンスの歴史において、その現象が成立する背景とを照らし合わせる多面的な思考の両方が要求されます。



以前は歴史という興味を引くことがない思っていたものが、今ではとても気になります。