2007年、浜崎あゆみは、台北・香港・上海の海外公演を含むツアー『ASIA TOUR 2007 A ~Tour Of Secret~』で、「十字架にハリツケにされる」パフォーマンスを行った。
「十字架ハリツケ」といったら、2006年に行われたマドンナのツアー『Confessions Tour』でも大胆に取り入れられ、話題になったばっかりだ。私も、マドンナの東京公演を目撃しており、今回のあゆの「十字架ハリツケ」を観たときは、真っ先にそのことを思い出した。
どうして、あゆはこういうことをするのだろう。こんなことをすれば、また「パクリ」と言われるに決まっている。「言ってください」と言っているようなものだ。私は「パクリ」だなんて思わないけど、世間はそうもいかないだろう。あゆがマドンナを敬愛していることは十分に知っているつもりだが、どうしてここまでマドンナにこだわるのか。一体、この「執念深さ」は何なのか。私は、正直、「ここまでやらなくても良いじゃないか」と思ってしまった。
しかし、ここまでくれば、認めざるを得ないだろう。これは、単なる「パクリ」で済まされるようなことでは、決してないと。そんな言葉では済まされない「何か」がある。それは、前から分かっていた。私はそれを「リスペクト」という言葉で捉えようとしていたのかも知れない。しかし、今回はそれさえも揺るがしてきた。「パクリ」どころか、「リスペクト」でも済まされない「何か」がそこにはあった。
これまで、こういうことがある度に、私は思っていた。あゆは「分かっててやっている」と。それは、話題作りでも何でもなく、「自分がそれに影響されている」ということを分かった上でやっているということだ。しかし、今回ばかりは、私も戸惑ってしまった。「もしかして、あゆは、本当に何も考えていないだけなのか?」と。そのくらい、衝撃的で大胆なことだった。
しかし、思い出して欲しい。あゆは、『COUNTDOWN LIVE 2005-2006 A』(2005年12月30日~31日)で、既に、「十字架ハリツケ」を行っているのだ。前の記事で書いたように、あゆは、同じことを繰り返すのを嫌うアーティストだ。にも関わらず、敢えて、再び同じことをやったのだ。(だから、私は、マドンナの「十字架ハリツケ」を観たときは、あゆのそれを思い出していた。あ、そうだ、『COUNTDOWN LIVE 2005-2006 A』では、開演前にずっとマドンナがかかっていたなぁ)
『ViVi』で連載されている「浜崎あゆみのデジデジ日記」に写真付きで掲載されたところによると、あゆ自身、マドンナの『Confessions Tour』をマイアミで2回観ているとのことだ。当然、「十字架ハリツケ」のシーンだって観ただろうし、あゆも、自身がカウントダウンライヴで行った「十字架ハリツケ」を思ったに違いない。そして、自身との「決定的な違い」を思い知ったに違いないのだ。そうでなくても、世間の反応が嫌でもそれを教えたはず。
マドンナが行った「十字架ハリツケ」は、世界中の宗教団体から非難を浴びた。ローマ公演の際は、「神への冒涜に近い」など、公演前から非難の声が続出する中、それは決行された。特殊部隊や警察官約7000人が動員されたという。マドンナは、「エイズ撲滅の慈善事業への寄付を観客から募るため」と反論し、実際にスクリーンには貧困に苦しむ人々の映像などが流された。このことは大きな話題になり、日本にもニュースで伝わってきた。マドンナの世界的な影響力の大きさを証明するような出来事だった。
一方、あゆの場合は、『COUNTDOWN LIVE 2005-2006 A』のときも、『ASIA TOUR 2007 A』のときも、そういう話題にはならないし、そのようなバッシングも起きない。それは、知名度の違いや開催地の宗教的な背景の違いもあるだろうが、何よりも、あゆには、マドンナのように、宗教的な背景や必然性、政治的なメッセージ性があるわけではなかったからだ。彼女の中にどのような思惑があったにせよ、世間にとっての「浜崎あゆみ」はそうだった。
マドンナは、今回に限らず、「ライク・ア・プレイヤー」(1989年)のプロモでも十字架を燃やす演出をしたり、また、自身もカバラの信仰に傾倒するなど、宗教的な結び付きが深い。それは、そんなことを詳しく知らなくても、あの圧倒的なパフォーマンスから十分に伝わってくるものだった。一方、あゆのパフォーマンスからは、そういった深い結び付きを感じ取るのには無理があった。過去に「M」のような曲を出してはいるものの、やはり、あゆの「十字架ハリツケ」は、あくまでも演出の一つであり、エンタテインメントに過ぎなかった。
そして、重要なのは、そういった「決定的な違い」を、誰よりもあゆ自身が思い知ったに違いないということだ。だって、そうでしょ。形式的には同じことをやっているのに、その意義や世間の反応も全くもって違うということを、実際に自分の目で、目の当たりにしたのだから。私は、マドンナのライヴを体験して、あゆがマドンナから影響を受けていることを強く実感しながらも、「マドンナとあゆ、全然違うじゃん!」とも感じた。実は、それを最も痛感したのが、この「十字架ハリツケ」のシーンだったのだ。全く同じことをやっていながら、全くもって違っていた。私は、あのときの感覚を忘れない。私でさえそうだったのだから、本人がそれを体感するというのは、どれほどのものだったのだろう。
そして、私は強く思った。「自分はマドンナにはなれない」ということを、誰よりも深く分かっているのは、「あゆ」なんだと。
だから私は、ここまでやらなくったって、あゆはあゆなんだから、自分の表現をすれば良いのにと思った。あゆがマドンナから影響を受けていることは、もう十分に分かったから、後は自分の表現をしてくれれば良いと。もちろん、あれだって自分の表現ではあったが、そんな誤解を招きやすいようなことをしなくったって良いじゃないかと。しかし、そうではなかった。
確かに、マドンナとは違い、あゆの「十字架ハリツケ」は、単なる演出であり、カッコ良いからといってする十字架のネックレスみたいな感覚で、政治的なメッセージもなく、ただのエンタテインメントにしか過ぎなかったのかも知れない。けれど、あゆは、それに「誇り」を持ってやっているのだ。私は、そんな大事なことも見落としかけていた。
あゆは、何もかもを分かった上で、2007年に再び「十字架ハリツケ」を決行した。何もかもを分かっているからこそ、やれたのだし、やる必要があったのだ。何故なら、あゆは「浜崎あゆみ」に誇りを持っている。自分がやっていることを、自分自身に証明するためにやる必要があったのだ。「決定的な違い」を突き付けられても尚、自分の表現の中にある「真実」を証明するために。そんなことは自分の心の中にだけあれば良いのかも知れない。けれど、そうはいかない。何故なら、あゆは、「大衆音楽家」なのだから。
あゆが自分自身に証明するということは、それを大衆にも証明するということなのだ。だから、あゆは、あれを決行した。私はそう思う。そういう意味では、マドンナにもあゆにも「必然性」はあった。
そして、そんなことができたのは、彼女が、誰かと同じことをしても「自分がやれば違うものになる」という確信があったからなのだろう。でなければ、あんなことは怖くてできやしない。もし、あゆが「ものまね芸人」にしか過ぎないのなら、「上っ面だけをなぞるだけの人」なら、こんなことはできなかったはずだ。
そして、話が飛躍してしまうが、あゆのスゴイところは、それがしっかりと「洋楽への批評」になっているところなのだ。少なくとも私はそう思っている。それこそが、あゆが「他の人と違う!」と思っている点でもある。
ただし、あゆが、そこまで考えてやっているかどうかは、私にはちょっとよく分からない。もしかしたら、あゆにしてみれば、「自分にしかできない表現」を追及している結果、そうなっているだけなのかも知れない。しかし、意識・無意識は別にしても、そんなに都合良く「偶然」が続くとは思えない。少なくとも、「リスペクト」の名のもとに、「愛」を売り物にしたり隠れ蓑にしたりはしていないだろうなぁ。
余談になってしまうかも知れないが、今回のことで、マドンナの『コンフェッションズ・ツアー・ライヴ』のDVDをじっくりと観てみた。やはり最初は、その「決定的な違い」を見せ付けられ、愕然としてしまった。しかし、ショーが進んでいくにつれ、イキイキと輝いてくるマドンナの表情の、その笑顔は、たぶん、あゆのそれと「同じ意味」を持っていた。
「十字架ハリツケ」といったら、2006年に行われたマドンナのツアー『Confessions Tour』でも大胆に取り入れられ、話題になったばっかりだ。私も、マドンナの東京公演を目撃しており、今回のあゆの「十字架ハリツケ」を観たときは、真っ先にそのことを思い出した。
どうして、あゆはこういうことをするのだろう。こんなことをすれば、また「パクリ」と言われるに決まっている。「言ってください」と言っているようなものだ。私は「パクリ」だなんて思わないけど、世間はそうもいかないだろう。あゆがマドンナを敬愛していることは十分に知っているつもりだが、どうしてここまでマドンナにこだわるのか。一体、この「執念深さ」は何なのか。私は、正直、「ここまでやらなくても良いじゃないか」と思ってしまった。
しかし、ここまでくれば、認めざるを得ないだろう。これは、単なる「パクリ」で済まされるようなことでは、決してないと。そんな言葉では済まされない「何か」がある。それは、前から分かっていた。私はそれを「リスペクト」という言葉で捉えようとしていたのかも知れない。しかし、今回はそれさえも揺るがしてきた。「パクリ」どころか、「リスペクト」でも済まされない「何か」がそこにはあった。
これまで、こういうことがある度に、私は思っていた。あゆは「分かっててやっている」と。それは、話題作りでも何でもなく、「自分がそれに影響されている」ということを分かった上でやっているということだ。しかし、今回ばかりは、私も戸惑ってしまった。「もしかして、あゆは、本当に何も考えていないだけなのか?」と。そのくらい、衝撃的で大胆なことだった。
しかし、思い出して欲しい。あゆは、『COUNTDOWN LIVE 2005-2006 A』(2005年12月30日~31日)で、既に、「十字架ハリツケ」を行っているのだ。前の記事で書いたように、あゆは、同じことを繰り返すのを嫌うアーティストだ。にも関わらず、敢えて、再び同じことをやったのだ。(だから、私は、マドンナの「十字架ハリツケ」を観たときは、あゆのそれを思い出していた。あ、そうだ、『COUNTDOWN LIVE 2005-2006 A』では、開演前にずっとマドンナがかかっていたなぁ)
『ViVi』で連載されている「浜崎あゆみのデジデジ日記」に写真付きで掲載されたところによると、あゆ自身、マドンナの『Confessions Tour』をマイアミで2回観ているとのことだ。当然、「十字架ハリツケ」のシーンだって観ただろうし、あゆも、自身がカウントダウンライヴで行った「十字架ハリツケ」を思ったに違いない。そして、自身との「決定的な違い」を思い知ったに違いないのだ。そうでなくても、世間の反応が嫌でもそれを教えたはず。
マドンナが行った「十字架ハリツケ」は、世界中の宗教団体から非難を浴びた。ローマ公演の際は、「神への冒涜に近い」など、公演前から非難の声が続出する中、それは決行された。特殊部隊や警察官約7000人が動員されたという。マドンナは、「エイズ撲滅の慈善事業への寄付を観客から募るため」と反論し、実際にスクリーンには貧困に苦しむ人々の映像などが流された。このことは大きな話題になり、日本にもニュースで伝わってきた。マドンナの世界的な影響力の大きさを証明するような出来事だった。
一方、あゆの場合は、『COUNTDOWN LIVE 2005-2006 A』のときも、『ASIA TOUR 2007 A』のときも、そういう話題にはならないし、そのようなバッシングも起きない。それは、知名度の違いや開催地の宗教的な背景の違いもあるだろうが、何よりも、あゆには、マドンナのように、宗教的な背景や必然性、政治的なメッセージ性があるわけではなかったからだ。彼女の中にどのような思惑があったにせよ、世間にとっての「浜崎あゆみ」はそうだった。
マドンナは、今回に限らず、「ライク・ア・プレイヤー」(1989年)のプロモでも十字架を燃やす演出をしたり、また、自身もカバラの信仰に傾倒するなど、宗教的な結び付きが深い。それは、そんなことを詳しく知らなくても、あの圧倒的なパフォーマンスから十分に伝わってくるものだった。一方、あゆのパフォーマンスからは、そういった深い結び付きを感じ取るのには無理があった。過去に「M」のような曲を出してはいるものの、やはり、あゆの「十字架ハリツケ」は、あくまでも演出の一つであり、エンタテインメントに過ぎなかった。
そして、重要なのは、そういった「決定的な違い」を、誰よりもあゆ自身が思い知ったに違いないということだ。だって、そうでしょ。形式的には同じことをやっているのに、その意義や世間の反応も全くもって違うということを、実際に自分の目で、目の当たりにしたのだから。私は、マドンナのライヴを体験して、あゆがマドンナから影響を受けていることを強く実感しながらも、「マドンナとあゆ、全然違うじゃん!」とも感じた。実は、それを最も痛感したのが、この「十字架ハリツケ」のシーンだったのだ。全く同じことをやっていながら、全くもって違っていた。私は、あのときの感覚を忘れない。私でさえそうだったのだから、本人がそれを体感するというのは、どれほどのものだったのだろう。
そして、私は強く思った。「自分はマドンナにはなれない」ということを、誰よりも深く分かっているのは、「あゆ」なんだと。
だから私は、ここまでやらなくったって、あゆはあゆなんだから、自分の表現をすれば良いのにと思った。あゆがマドンナから影響を受けていることは、もう十分に分かったから、後は自分の表現をしてくれれば良いと。もちろん、あれだって自分の表現ではあったが、そんな誤解を招きやすいようなことをしなくったって良いじゃないかと。しかし、そうではなかった。
確かに、マドンナとは違い、あゆの「十字架ハリツケ」は、単なる演出であり、カッコ良いからといってする十字架のネックレスみたいな感覚で、政治的なメッセージもなく、ただのエンタテインメントにしか過ぎなかったのかも知れない。けれど、あゆは、それに「誇り」を持ってやっているのだ。私は、そんな大事なことも見落としかけていた。
あゆは、何もかもを分かった上で、2007年に再び「十字架ハリツケ」を決行した。何もかもを分かっているからこそ、やれたのだし、やる必要があったのだ。何故なら、あゆは「浜崎あゆみ」に誇りを持っている。自分がやっていることを、自分自身に証明するためにやる必要があったのだ。「決定的な違い」を突き付けられても尚、自分の表現の中にある「真実」を証明するために。そんなことは自分の心の中にだけあれば良いのかも知れない。けれど、そうはいかない。何故なら、あゆは、「大衆音楽家」なのだから。
あゆが自分自身に証明するということは、それを大衆にも証明するということなのだ。だから、あゆは、あれを決行した。私はそう思う。そういう意味では、マドンナにもあゆにも「必然性」はあった。
そして、そんなことができたのは、彼女が、誰かと同じことをしても「自分がやれば違うものになる」という確信があったからなのだろう。でなければ、あんなことは怖くてできやしない。もし、あゆが「ものまね芸人」にしか過ぎないのなら、「上っ面だけをなぞるだけの人」なら、こんなことはできなかったはずだ。
そして、話が飛躍してしまうが、あゆのスゴイところは、それがしっかりと「洋楽への批評」になっているところなのだ。少なくとも私はそう思っている。それこそが、あゆが「他の人と違う!」と思っている点でもある。
ただし、あゆが、そこまで考えてやっているかどうかは、私にはちょっとよく分からない。もしかしたら、あゆにしてみれば、「自分にしかできない表現」を追及している結果、そうなっているだけなのかも知れない。しかし、意識・無意識は別にしても、そんなに都合良く「偶然」が続くとは思えない。少なくとも、「リスペクト」の名のもとに、「愛」を売り物にしたり隠れ蓑にしたりはしていないだろうなぁ。
余談になってしまうかも知れないが、今回のことで、マドンナの『コンフェッションズ・ツアー・ライヴ』のDVDをじっくりと観てみた。やはり最初は、その「決定的な違い」を見せ付けられ、愕然としてしまった。しかし、ショーが進んでいくにつれ、イキイキと輝いてくるマドンナの表情の、その笑顔は、たぶん、あゆのそれと「同じ意味」を持っていた。
感動したわよ。貴女、あたしの妹ね。もしかしたら、「運命のひと」かもよ。
心に届くよ。かわいこちゃんの文章は、真摯だ。あたしは、真面目なコが好き。まっすぐで、真剣で、此の世をシアワセにしたいって野望を持ってる娘さんが大好きなんだ。
だから、あたしにとって、君は片瀬とおんなじだよ。
「運命のひと」かも知れないね!
「此の世をシアワセにしたいって野望」かぁ。
そんな言葉、初めて言われたよ。
「野心はないんですか?」みたいなこと言われたことがあるんだけど(笑)、「そうだ。私には何よりも捨てられない信念があるんだ」って思えたよ。
ありがとう。
「片瀬とおんなじ」
この言葉が、どれほどの意味を持っているか、噛み締めております(笑)。
私もずっと同じようなこと思ってたんですよね…。ayuだって、ぜったいパクリだって言われているのを知っているだろうに何でここまで模倣するのだろう??って…。
しかもアイデアを真似るっていう程度ではなくて忠実に再現してる感じじゃないですか??それでなんでなんだろう??って思ってたんですけど、葉っぱさんの記事を読んで、そうだな~って思いました。
なんかそう思うとそこに込めたayuの真の思いをもっと分析したくなってきました(≧∇≦)/!!!
そうなんですよね。もう絶対に色々言われていることは知っているはずですよね。あゆの発言からだって、色々なことを分かっているんだなっていうのが伝わってきますし、そういうことに鈍感でいられるような人じゃないですよね。
その上でやっているのだから、何かあゆなりの想いや考えがあるはずですよね。
大体、パクリだったら、ここまでのことをやれていないと思うんですよ。あゆのやっていることは、色々なことを分かっていなきゃできないことだと思うんです。
あゆは、ちゃんと「何か」を提示していると思います。
その「何か」っていうのは、結局のところ「自分」なんだろうし、アイデアを真似ようが、忠実に再現しようが、あゆは常に「自分を提示すること」を忘れていないと私は思います。