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sky is blue

言わなければよかったのに日記

Do You Want To Know A Secret

2007-03-01 22:40:12 | AYU
ふと思う。
私は、あゆに、パワーをもらっているのか、パワーを奪われているのか。

以前、スターには「変人性」が必要で、その中でも、

・その変人性が故に、周りのエネルギーを破壊する事によってスターになる者
・その変人性が故に、周りにエネルギーを与えてスターになる者

というのがあると思う……という文章を読んだことがある。なるほど。納得である。

そこで、あゆの場合を考えてみるに、私は当然「後者」だと思っているのだけど、しかしそこで、ふと立ち止まってしまった。

あゆは、人のパワーを奪うことによって、人気を得ているのか。
それとも、人にパワーを与えることによって、人気を得ているのか。

当然、後者の方が良いなとは思う。
しかし、スターには、前者と後者、両方の側面があるんじゃないだろうか。

例えば、ポール・マッカートニーだったら、迷わず「後者」だと思う。エレカシでもそうだ。しかし、考えてみれば、エレカシだって、初期の頃は、前者的な要素が大いにあったんじゃなかろうか。ポールなんて、ものすごくアヴァンギャルドだったりするわけで。

何でこんなことを書いているのかというと、あゆの「ヘヴィさ」について考えていたからなのである。

あゆの曲は、どれも大抵「ヘヴィ」だ。しかも、それが売れていて、どうしてこんな曲がこんなに売れているんだろう?と思ってしまうくらいだ。歌番組やチャート番組などを見ていても、何だかあゆは浮いているような気すらしてしまう時がある。そこを、彼女自身の持っている魅力が、ポップ・ミュージックとして成り立せている。そんな気がする。

前置きが長くなってしまったが、2006年11月、あゆはアルバム『Secret』を出した。このアルバムを聴いて私が真っ先に思ったことは、聴きやすい!ってことだった。それもそのはず、前作『(miss)understood』では約66分あった収録時間も、今回は約55分と短くなっている。もともとはミニアルバムの予定だったのを急遽フルアルバムに変更したというのもあるのだろうが、ちょうど聴きやすい、集中力が切れない時間になっている。しかしこれは、収録時間の問題だけではない。曲自体も、どこかコンパクトというか、潔いというか、収まり良く収まっているような印象があり、アルバム全体としても、非常にスッキリとした印象がある。

彼女の持っている「ヘヴィネス」がここまで削ぎ落とされているのは、初めてのことだと思う。まず、そのことに驚いた。あゆの持っている「ヘヴィネス」は、良くも悪くも彼女の作品にずっと付いてくるものだと思っていたから。しかし、じゃあ、今度の作品が「ヘヴィ」じゃないのかと訊かれれば、そういうわけでもない。やっぱり、ちゃんと「ヘヴィ」だ。

アーティストが、自身の欠点や弱点を克服しようとする場合には、同時に、魅力が失われてしまう危険性を常に孕んでいると思う。何故なら、その欠点こそが魅力であったり個性であったりするからだ。しかし、自覚的なアーティストであればあるほど、そこに甘んじ続けることを許さなかったりもするのだろう。あゆが自分の持っている「ヘヴィネス」を欠点だと思っているかどうかはともかく、彼女は、この『Secret』で、何らかの折り合いをつけたと感じた。

それは、最終曲「Secret」を聴いて、より確信へと変わった。この曲は、ファースト収録のあゆの原点中の原点と言える曲「A Song for ××」のアンサーソングと言える内容で、私はこれを聴いて、ああ、あゆは「浜崎あゆみ」と折り合いをつけたんだと思った。『Secret』は、あゆが初めて「浜崎あゆみ」と折り合いをつけた最初のアルバムになるのかも知れない。

その後、彼女は、ベストアルバムの発売に踏み切り、カウントダウンライヴでもこれまでの集大成的なライヴを行った。やっぱり、彼女の中で何かが吹っ切れたというか、何かに踏ん切りをつけたのだとしか思えない。

ここで、最初の話に戻るようだが、今や「浜崎あゆみ」と言えば知らない人を見つけることの方が困難なくらいなのに、じゃあ一体、どれだけの人が「浜崎あゆみの曲」を知っているというのだろうか。一曲でも良いから歌える曲は? 題名と曲が一致する曲は? 「浜崎あゆみの曲」の認知度は、「浜崎あゆみ」の認知度からすると、驚くほど少ないのかも知れない。これをCDが売れなくなった時代のせいにすることは簡単だけど、どうもそれだけじゃないような気もしてくる。例えば、大塚愛といったら「さくらんぼ」とか、MISIAといったら「Everything」とか、名刺代わりとなるような曲ってあるでしょう? でも、あゆの代表曲って言ったら、一体どの曲になるんだろう? 「M」? 「SEASONS」? 「Dearest」? 何だかイマイチこれ!ってのがないような気がする。別にないのがいけないというわけじゃなく、これだけ有名なのにそれがパッと思い浮かばないのも不思議なことのような気がして。ただ、そのアーティストのイメージを決定づける決定打といった曲がなかったことが、あゆの場合は良かったのかも知れないとも思う。もしくは、あゆ自身がそれを避けていたところもあったのだろうか。(意外にあゆはキャッチーじゃないのかも!?)

いずれにせよ、例えば、「どんなときも。」とか「愛は勝つ」とか「LOVE LOVE LOVE」とかのレベルで、もう好き嫌いに関わらず、誰もが知っているであろう曲というのが、あゆにはないということは言えるだろう。

それが、一番最初に書いた「エネルギーを破壊する/与える」であったり、「ヘヴィさ」であったり、そういうことと関係しているのかなとふと思ったのである。

つまり、エレカシでいえば、あゆはまだ、「悲しみの果て」とか『ココロに花を』とか「今宵の月のように」とかいった作品を作れていないんじゃないだろうか、ということなのだ。うーん、これじゃあ、エレカシのことをよく知らない人からしたら、何のことやら分からないか(苦笑)。エレカシは、今挙げたような曲やアルバムで、世間一般に向けてアピールし、また、認知されたのだが。えっと、だから、あゆはまだ若いというか(笑)、自身の中にある破壊的なエネルギーやヘヴィネスと格闘している最中なんじゃないかと。もちろん、そんなものはずっと続いていくわけなのだけれども。

ただし、あゆがエレカシと決定的に違うのは、その時点で、もう名前が知れ渡ってしまっているということなのだ。まぁ、だから、「浜崎あゆみの曲」よりも先に「浜崎あゆみ」が知られてしまったというか、「作品」よりも先に「名前」が知られてしまったというか。もちろん、「浜崎あゆみの曲(作品)」なくしては、「浜崎あゆみ(名前)」もまた、ここまで知られることはなかったのだけれども。

「どんなときも。」や「愛は勝つ」や「LOVE LOVE LOVE」といった曲は、もう槇原敬之やKANやドリカムの手を離れて独り立ちしている曲だと言えるだろう。しかし、あゆの曲は、まだ「浜崎あゆみ」の手を離れられないでいるような気がしてならない。もちろん、「どんなときも。」のような曲を作ることがすべてではないし、それが良いことだとも悪いことだとも言っていないのだけれども。

しかし、これだけは言えそうだ。

あゆのライバルは、他でもない、「浜崎あゆみ」なのだと。

もし、あゆが、代表曲と言えるような曲を作ろうとするならば、それは、「浜崎あゆみ」を超えるような曲を作らなければならないのだろう。これは、とても難しいことのように思える。何故なら、世間の中では「浜崎あゆみ」は完成されてしまっているような気がするからだ。しかし、あゆはまだまだ「未完成」なのだ。

『Secret』で、あゆが「浜崎あゆみ」と初めて折り合いをつけられたのだとしたら、それはとても大きな一歩であるに違いない。