goo blog サービス終了のお知らせ 

sky is blue

言わなければよかったのに日記

The Stills @LIQUIDROOM ebisu

2004-11-08 11:38:13 | ライヴ
やっと普通のことが書けるーーー!!

と、その前にトランス後記――。
東京事変のセカンド・シングル『遭難』に入っている「心」という素晴らしい曲があるのですが、<心と云う毎日聞いているものの所在だって 私は全く知らない儘大人になってしまったんだ>と歌われています。やっぱり! 「心」と「体」を超越している人の表現やわ~。ちなみに林檎ちゃんはソロ時代、<心>という言葉は「あおぞら」という曲でしか使っていません。心って何だろうって思って分かんないから使わないということみたいで。そんな人が「心」という曲を作ったんですよ! しかも昨年の誕生日に自分の誕生日を祝ってくれる人のために作ったらしいんですよ! なんで心の所在が分からないかって、そりゃ貴方、これが心そのものだからですよ! それに、Syrup16gの「リアル」。<本当のリアルはここにある>。そうです! 「心」も「体」も「もう一人の自分」も含んでいる「全自分」がそこにあるんです! そして、ふいにエレファントカシマシの「必ずつかまえろ」を思い出した。<自由なんて瞬間なんだ 感じるものさ>。そう、「心」と「体」を超越して「自由」を感じる瞬間なんて一瞬なんだよ! この曲全部まんまそれ。歌詞読んで勝手にビックリさせてもらった。引用しようと思ったらほぼ全部だった(だから引用はこれだけにしておいた)。
――と、自分が書いた内容と勝手にリンクさせて言い聞かせて喜んでいる私でございました。しょーもない。しかし、こんな風にして、トランス状態から抜けさせてもらうのでした。ちゃんちゃん。

というわけで本題。カナダのスティルズというバンドのライヴに行ってきた。今年の6月にファースト『ロジック・ウィル・ブレイク・ユア・ハート』を出し、フジロックとそのアフター・パーティーにも出演した、「最近気になるアーティスト【洋楽編】」でも取り上げたバンド。キラキラしてるのに憂鬱で気だるくて切ないそのサウンドと詞世界に何気なく魅了されたのだが、ライヴまではどうしようかな~と悩んでいて。でも、外国のアーティストは一回来日を逃すとなかなか次来てくれなかったりするから、やっぱり行っておこうかな~と、そんな軽~い気持ちでチケット取っておいたんだけど、いやぁ、行って良かった! 久々にええもん観させてもらいました!って感じ。こんなに良いなんて。CDじゃ、全然その魅力が伝わり切ってないよ! もったいない!

この日は前座にOCEANLANEという日本のバンドが出た。日本のバンドといっても、一人は外国人?ハーフ? 数曲での、サポート・ギターを入れたトリプル・ギターは分厚かったぁ。ギターの音が好きなんだろうなぁと思った。映画『16歳の合衆国』にインスパイアされて書いたという「Out Of Reason」って曲が良かった。ストリングスの音と絡めて綺麗な曲だった。オアシスっぽい? っていうかUKっぽい? その次にやった曲「Ships And Stars」も良かった。特に説明があったわけじゃないけど、この曲はバンドの代表曲なんだろうなって思った。ずっとバンドと一緒に歴史を歩んできたんだろうなって。そういう曲っていうのは、やっぱり、そのバンドの歴史とかが滲み出てくるんだろうね(違ってたらアレだけど…笑)。最後は、「Sign」って曲だったろうか、40分くらいのライヴだった。

そう言えば、ここ「リキッドルーム恵比寿」は初めての会場。新しいしやっぱり綺麗。カフェやロビーもあって広々してるのが良い。ライヴ・スペースは、渋谷クアトロと旧・新宿リキッドを足して2で割って綺麗にした感じ? 場所も恵比寿で、渋谷や新宿の喧騒とはまた違った空気で良いんではないだろうか。しかし今日の客はおシャレな人が多かった気がするな。外人も結構いたし。でもスティルズの感じからするとそれも分かる気がする。素敵な感じなんだよね、4人とも。

スティルズの登場を待つ間、スキンヘッドのR.E.M.みたいな人が(私よく分からないし目悪いから全然似てないかも知れないけど)、ちょろちょろちょろちょろ何回も楽器のチェックしてるから、まだかな~まだかな~、あ!またR.E.M.が!と心の中で呟いておりました。ドラムセットがステージ向かって右側にセッティングされてた。なるほど。このスティルズはもともとドラムのデイヴ・ヘイムリンとヴォーカル&ギターのティム・フレッチャーが始めたバンドで、ほとんどの曲をデイヴが書いているらしいから、ドラムも前線に置くのかな? スクリーンも用意され、VJありらしい。

そしてメンバーが登場するや否や、その佇まいが何ともまぁ素敵で。どう表現したら良いのだろうか。ジョイ・ディヴィジョンやニュー・オーダーが引き合いに出されるのも分かる気がするね、こりゃ。「ローラ・スターズ・アンド・ストライプス」から始まって3曲目くらいまでアルバムの曲順通り(そのままアルバムの順番通りやるのかと思った)。特に1曲目のベースにはびっくりしちゃいました。こんなにゆっくりグルーヴしながらコチラの気持ちを昂ぶらせていくなんて。

演奏もヴォーカルも素晴らしく血の通ったものだった(サポート・キーボードあり)。CDで感じたキラキラした気だるさは、こんなにも情熱的で激しいものに裏打ちされていたのかと驚いてしまった。それとともに、申し訳ない気持ちともったいないという気持ちが込み上げてきた。だって、CDからナイーヴで小奇麗なライヴをみせてくるのかと思っていたら、こんなにも熱く激しいものをみせてくるんだもの。まさか“血”を感じるとは思わなかったよ。非常に官能的で、体内に侵入してくるし、犯されてしまうんではないかと思った(笑)。これがCDにも封じ込められればなぁ。ああ、もったいない! ああ、惜しい! CDではピンと来なかった人も、ライヴ観たらこれ変わるよ。これがCDにも反映されれば、もっと人気出るはず!

そして、「スティル・イン・ラヴ・ソング」。<I'm still in love(いまでも愛してる)>、なんて切ない歌なんだ! そしてダンサブルな曲。スティルズが何故こんなにも切なくて官能的なのか分かった! それはこの音に込められた想いが、片想い、届かぬ想いだからなんだ! しかも、その相手はもうここには居ないって感じ。星を見つめて、「ああ、これは何百年も前の光なんだよなぁ」と感じる、あの気持ちに近い。スティルズは、何百年も前に光っていた星の光を今届けにきたバンドなのか? バンド名の「スティルズ」もなんかそんな感じだし。ああ、切ない。でも、出会えて良かったぁ。

新曲が披露されたんだけど、これがまたスティルズらしくない! キーボードがリズムを刻むちょっと陽気な曲で。こんな曲も出てきてるのかぁ。こりゃ今後が楽しみ。最後は「イエスタデイ・ネヴァー・トゥモロウズ」で、デイヴがヴォーカルをとる。アルバム中、1曲だけデイヴがヴォーカルの曲があるって聞いてたけど、この曲だったのかぁ(聴き分けられなかった…)。打ち込みの音に乗せて、ハンドマイクで楽しそうに歌うデイヴ。さっきまで背筋をピンと張って誠実なのに投げやりにも見える叩き方で(でも正確)ドラムを叩いていたけど、歌う前に「イッツ・ジョーク」とか言ってとてもリラックスした感じ。ティムもスピーカーの上に乗ったりして、さっきまでの官能的な雰囲気とは違って解放的にギターを弾いている(でも色っぽさはどうやっても隠し切れないのよね)。ベースのオリヴァー・クロウはやんちゃですねぇ。最後、客席にダイヴして客と触れ合って踊ってました。リード・ギターのグレッグ・パケットは物静かで可愛い。ちょっと何考えてるか分からないけど(笑)。淡々と、でも確実にギターを弾いていた。そんな風に、最後の曲では、さっきまでの官能的な雰囲気とは打って変わって、突然少年のように飛び跳ねるものだからもう、男の人って素敵ですね。しかし最後はしっかり、スクリーンの映像と音が合うようにセットしてから帰っていきました。誰も居なくなったステージにその音と映像が浮かび上がる。

カナダ出身だからなのか、イギリスのバンドにもアメリカのバンドにもないものを感じた気がする。ライヴ行くのさえ迷っていたのに、観終わった後は、次来たら行かなくちゃ! CDも早く次出さないかな~と高揚していた私でありました(でも「レッツ・ロール」聴きたかったな)。どうにかして、ライヴでみせてくれた魅力をCDにも反映させてくれぃ! 今日の血の匂いをさぁ!


心と体を超えて!

2004-11-04 12:28:18 | 音楽コラム
これは、「想いが言葉に変わるまで」「魂のかたち」「ラック・オヴ・リーズン」の続きです。
かなーーーり気持ちの悪い文章なんで覚悟して下さい(笑)。

こうやって色々と考えてきて、見えてきたことがある。それは、

人と同じように、音楽にも「心」と「体」があるのではないだろうか、ということだ。

「技」もあるかも知れないが、ここでは「心」と「体」という視点で語っていきたい。「心」は、その音楽が伝えようとしていること。それは歌詞であったり、感情であったり、思想であったり、想いであったり…。「体」は、何拍子であるとか、長調・短調とか、AメロBメロサビとか、使われている楽器とか、ジャンルとか、ルーツとか…。

そして、人に対してもそうであるように、その音楽が大切であればあるほど、その「心」も「体」もすべてを大切に思うはずだ。だから、好きな音楽に対しては、歌詞だって、感情だって、思想だって、リズムだって、構成だって、ジャンルだって、ルーツだって、時代背景だって、何だって大事だし、すべてを知りたいと思うものなのだ。その中には、作り手の物の考え方や人物像だって含まれるわけだから、作り手自身の経験やら知識やらも自然と含まれる。また、自分にとってその音楽がどのようなものかという自分の解釈も含まれるし、自分以外の人がその音楽をどのように感じているのかという他人の解釈も含まれる。そして、それがどのようなリズムやメロディを構築していて、どういうルーツや時代背景に基づいているのか、それらに対する作り手の解釈やアプローチ、また、それが世間から見てどのジャンルに属するのかとか、どんな位置付けになるのかといった世間的な解釈も含まれる。それらすべてが「音楽」であり、「音楽」を構成している。だから、そういったことすべてを知りたくなるんだろうし、大事に思うんだろう。もちろん人によって興味の方向はさまざまだが、そのどれもがその「音楽」の一部であり、一人ではカバーしきれないのだろう。ってか無限?

それだから、歌詞のことだけ書かれたレヴューや精神論めいたことばかり述べられた評論に対して「これはもはや音楽じゃない」と言われたときに、頭では分かっていながらも、どこか理不尽さを感じてしまうときもあるのだろうし、リズムや構成や音色、ルーツのことだけを語られても、「それも分かるんだけど、それだけじゃないんだよなぁ」というもどかしさを感じてしまうときもあるのだろう。「魂のかたち」でも触れたように、「ジャンルなんて関係ない!」にも「ロックが好きだ!」にも頷けるが、どちらの言葉でも何か足りない、カバーできていないという感覚。それが正直なところ。

要は、自分が好きな音楽に対して、自分自身がどう捉えるかはもちろん、自分以外の人がどう捉えるかも、世間がどう捉えるかも、作り手自身がどう捉えているかも、何から何まで知りたくなるってことで(人によって差はあれど)、また、それらが「音楽」を形作っているということだ。だから、すべてが大事なわけだ。で、リズムや調やジャンルなんてものも人が考え出した概念なわけだから、音楽は「心」も「体」も、人の解釈によって形作られていて、実体がない、ということになる。や、実体は「音」なのだろうが、これは目には見えない。

しかし、果たしてそれだけか?

音楽に「心」と「体」があるのは分かった。けど、果たしてそれだけだろうか。例えば、「心」も「体」も大事ってことで、「心」の部分も語って、「体」の部分も語って、そのどちらもが大事なんだと主張しても、何か足りない。何かまだ音楽に追いついていない。いや、今まではそれに気付かずにいられたんだけど、気付いてしまったんだ。歌詞も楽曲も凄いとは思えないのに、それを頭では分かっているはずなのに、どーしても惹かれてしまうことがあると知ったから。「心」と「体」だけでは説明つかないことがあることを知ってしまったから。

だから思った。音楽は、「心」も「体」も超えたところで聴いている(鳴っている)のではないだろうかって。

「心」と「体」が別々に引き裂かれたままじゃダメなんだ。「心」と「体」を超越したものでなくては――。「大切な人」に置き換えてみて欲しい。「心」と「体」なんてハッキリ別けられるものではないし、繋がってこそのものだし、「心」と「体」を超えた「何か」じゃない?

考えてみれば、音楽を聴いているときは、その音楽が持っている「心」も「体」も関係なくなっていることが多い。いくら歌詞に感動したって、どれだけメロディに感激したって、その音楽に包まれている間は、歌詞の意味とかメロディ・ラインとかも超えて、もっと高い位置で何かを感じている。そんな気がする。もちろんそこには歌詞の意味だってメロディ・ラインだって含まれている。だけど、それらを含めた上で、それらを超越してるんだ。「心」と「体」を統べながら、「心」からも「体」からも解放された、「心」と「体」を超越したもの(感性?)になっているんだ。きっと、私にとっては、それが「音楽」なんだ。そうして初めて私の中で「音楽」になる。だからこそ、歌詞の意味が分からなくても、歌詞だけ読んでも何とも思わなくても、演奏のテクニックの凄さが分からなくても、楽曲が凡庸で稚拙に思えても、訴えかけてくるときがあるんだ。

そう考えてみると、自分が「音楽」を聴いていて快感を感じるとき、つまり、自分が「音楽」に求めているものも、「それ」なんじゃないかと思えてくる。「心」と「体」を超越すること。例えば、「音楽」を聴いている間は、自分が日本人であるとか会社員であるとか家族構成とかそういう「体という概念」も、悲しみとか怒りとかそういう「心という概念」も、忘れかけてしまう。自分を「無」にしてくれる。でも、よくよく考えてみると、それは、自分を取り巻くさまざまな環境とか経験とか知識とか、そういう自分以外のものを「無」にしてくれてることだと気付く。つまり、自分から解放してくれると同時に、真の自分(魂?)みたいなものに回帰させてくれる。しかし、そういったさまざまな環境や経験や知識などが自分を形成しているのもまた事実なわけだから、もちろんそこにはそれらも含まれている。で、それらを含めた上で、それらを超越している感じなんだよね。さっき言ったのと同じ。「心」と「体」が統べられ、「心」からも「体」からも解放され、「心」と「体」を超越する感じ。幽体離脱じゃないけれど、「心」と「体」を俯瞰している「もう一人の自分」がいて、でもそれが決して「心」からも「体」からも離れていないっていうか、「心」も「体」も「もう一人の自分」も含んでいる「全自分」っていうか。「心」と「体」がフュージョンした「何か」? 一種のトランス状態だろうか。霊的なものなのかもね。

色即是空。空即是色。

「無」であり「すべて」である自分になれる場所――だろうか。

自分が音楽に対して「何もない」と思ったのは(「想いが言葉に変わるまで」参照)、それがきっと「すべて」だったからなんだろう。…と、都合よく解釈してしまうことにしよう。今は、とりあえず。

でも、こう思えたとき、私の中で何かがスッキリしたんだよね。だから、これを読んでくれた音楽好きの人も、同じようにスッキリしてくれたのなら凄く幸せなことだな~と思って。自分勝手で自己満足なんだけど(苦笑)。でも、ここまで考えが見えたから書き出せたわけで。逆にグッタリさせてしまってたりして(苦笑)。でも、なんちゅーか、こう思えたとき、クサいけど、自分が好きな音楽に対して、他の人がどんなことを言ったとしても、それを気にしないようにするのではなく、それさえその音楽の一部として愛しちゃえば良いんだ、とさえ思えたんだよね。一瞬のことかも知れないけど(笑)。

とにかく、音楽は自由なものであって欲しいし、疎外感を感じさせるようなものではあって欲しくないと思う。

そこで、音楽を言葉で表現するってどうなんだろうって考えてみた。私は、音楽には自由な存在であって欲しいと強く思っている。でも、その音楽を言葉で表現するってことは、音楽の自由を奪ってしまうものなのかなぁとも考えてしまう。でも、気持ちとしては、「音楽をもっともっと自由なものにしたい!」ってなぐらいの気持ちで書いてるような気がする。矛盾してるのかも知れないけど、それをぶち破りたいよなぁ。いや、もともと音楽は自由なものなんだけど、それが奪われてるような気が勝手にしちゃって、音楽の自由を取り戻せー!みたいな(笑)。バカだよねぇ。でも、そんな気持ちで書くのかもな。それができてるかどうかは別として(笑)。

だから、音楽には自由な存在であって欲しいってことは、イコール、自分が音楽の前では自由な精神でいたいってことなんだよ! そのために書いてんだよ! 音楽がそうであるように、自由な精神で「心」と「体」を超越した文章で書けると良いよね。「心」と「体」が引き裂かれたままじゃなくてさ。もともとそれは一つだったんだろうし。ってか、人が勝手に別けただけなのか? それが、音楽の自由が奪われてしまってる気がしてしまう原因か?(私が勝手に気がしてるだけだけど) その音楽で、どのように「心」と「体」を超越していくのかを書けば良いのかな。ということは、その前に、その音楽で「心」と「体」を超越しなきゃならんのか。ううーん。難しいな。でもそれがしたいんだろうな。「音楽」のような「文章」を書きたいって、そういうことかなぁ。そして、それを読んだ人も、「心」と「体」を超越して、自由な気持ちになれたとしたなら、そりゃあもう、最高だよね。

って!!! ここまで読んでくれた人、本っっっ当にありがとう!!! そして、お疲れさまです。感謝してもしきれません。もう最後の方、根負けして自分でもわけ分からなくなりながら半べそかきながら抽象的なこと書いてるし(大汗)。もうヤケですよヤケ! タイトルの最後の「!」はヤケの印だと思ってもらえれば(オイ!)。また、いつか、もっとうまく言えるときがきたら、書きたいと思います。考えも変わるかも知れないし(笑)。それにこんなこと、自分一人で考え抜いたわけじゃもちろんなくて、色んな人との会話や色んなものを見て思えたことだから。それらすべてにも、ありがとう!!!

結局は、音楽、これからもよろしく~。
そして、皆さん、これからもよろしくお願いします。

ああ、しかし、こんな内面を晒すような話(?)、物凄く恥ずかしいです。良いのだろうか? これは(不安)。でも、一回は書かずにはいられなかったわけで。自分でも「バカじゃないの?」って思うくらい大げさに書いてます、はい。ま、たまには良いよね?(恐る恐る) でもなぁ、自分で説明できないもんを誤魔化したいがために無理矢理まとめてる気もするよなぁ、超越って…。ってイケナイイケナイ! とりあえず今回はこれで終わりにしないと! 旅は続くのだから!(笑)

これにて、変なトランス状態(笑)からは抜けたいと思います! できるか?


ラック・オヴ・リーズン

2004-11-03 19:35:01 | 音楽コラム
前々回で、私は、人に「音楽好き」と言えるくらいになったのは遅い方かも知れないが、昨日今日音楽を聴き始めたわけではない、と書いた。では、私は今まで、どんな風に音楽と付き合ってきたのかを考えてみた。私なりの「肥えた耳」や「成長過程」を探すのだ!

中学生の頃から、B'z、ユニコーン、ブーム、東京少年(懐かしー! つい最近も聴いたけど良かったよ! ニューウェーヴの匂いプンプン! 当時はそんなことお構いなしだったけどね)とか、音楽は結構聴いていたけど、熱心に聴くようになった最初のアーティストとなると、「L⇔R」だろうなぁ。それまでは、メンバーの名前とか顔とか人物像なんかどーでも良かったし(名前くらいはチェックしてたかもだけど)、インタビューなんて読まないし、ルーツなんて「はい? 何のことですか?」状態だったと思うし、コンサートなんて「行く」という発想すら抱かなかったもん。それでも、音楽に何やら神ががり的なものというか魔法的なものは感じていたと思う。だから、わけも分からず「何だかよく分からないけど、これから目(耳)を離さない方が良いみたいだぞ!」みたいな妙な思い込みはあったかも知れない。怪しいものだったんだよ音楽って。もちろん今もだけど。

L⇔Rにハマったおかげで、インタビューや音楽雑誌を読んだり、ラジオを聞いたり、彼らが影響を受けたと言う音楽を聴いてみたり、そして、初めてコンサートに行ったり、色々した。いつしか興味の対象は「L⇔R」よりも「音楽」になっていって、まぁ、そっからだなぁ。色々な音楽を聴くようになった。

「L⇔R時代」(と名付けてみる)は、もちろん彼らが大好きだったけれど、あんまり歌詞とか気にしてなかった気がする。インタビューとかも読むんだけど、彼らの人間性が云々とか、音楽性が云々とかあんまり考えてなかったと思う。でも、色々な音楽を聴いていくうちに徐々に変化してきて。歌詞も気にするようになったし、考えるようになった。その人の物の考え方とか、表現に対する姿勢とかも考えるようになった。そういう音だけじゃない部分も含めて楽しむようになったし、また、そういう部分が音に直結しているんだなと感じるようになった。音以外の要素も「音楽」として楽しむようになったというか、「音楽」の中に音以外の要素も見つけたというか。

だから、ただ単に音を楽しむだけじゃなくて、そこに内包されている物の考え方であるとか、大げさであんまり使いたくはないけど人生観とかにも影響されるようになっていったんだと思う。例えば、どうしてこの人は音楽を鳴らすのかとか、どうしてこのような音楽になっているのかとか、自分は何故その音楽が好きなのかとか、自分はその音楽のどんな部分に惹かれたのかとか、そういうことをイチイチ考えるようになったというわけだ。音楽とより深いところで繋がろうとしたのかな。結局そういうのって、自分はどういう人間なのか?とか、生きるとは?ってところまでいっちゃうから、なんか、クサくて嫌なんだけど。(それが前回言った「聴き方」が幼稚な気がするってことかも)

考えてみれば、私の「音楽好き」のスタートとも言えるL⇔Rにハマるキッカケとなったアルバムのタイトルからして『ラック・オヴ・リーズン』なんだもん。『理由が欠けている』んだよ? だからこんな、理由を探す旅みたいなもんが始まっちゃったんだよ。L⇔Rめ…。

しかし、その一方で、これはもはや「音楽」と言えるんだろうかって思ったりもする。例えば、歌詞のことばっか書かれたレヴューとか精神論めいたことばっか述べられた評論に対して、「これはもはや音楽じゃないじゃん」とか言う人いるでしょう。でも、だったら、「音楽って何だろう」って思うわけです。私はそうやって「音楽じゃない」って切り捨てることはできない。何故なら、歌詞に感動したり精神論めいたことに共感してしまったりするときもあるから。でも、かと言って、歌詞カードだけを読んで満足したりはしない。だったら、詩集を読んでりゃ良いわけだから。やっぱり、そこには音がなくちゃ絶対にダメで。でも、音だけじゃないことも確かで。

さっき、理由を探す旅だなんて言ったけど、そうやって色々考えるようになった分、今では何とな~く自分が好きになる音楽に対して、「ああ、私が好きになるの分かる気がする」って自分で思ったりする。でも、そんな色んなことに対して理由を考えたりするよりも、ただただ音を楽しんでいた「L⇔R時代」の方が、自分は純粋に音楽を楽しめていたのではないだろうかとも思ったりする。でも、やっぱり、それは違う。だって、人は色々な人や出来事と出会ったり別れたりして、色々なことを経験したり考えたりして、生きているんだもの。だから、音楽に対してだって、色々考えるようになるのは自然なことで、当然なことで、健康的なことだと私は思う。だからといって、最初に好きになったときの純粋な気持ちを失うわけじゃない。それがあるから、今も音楽を聴いているんだし、考えているんだと思う。それにね、「L⇔R時代」だって(おそらくその前だって)、自分では気付いてなかったかも知れないけど、音以外の何かも聴いていたんだよ、確実にね。

それに、今だってあるんだよね。自分が予想もしていなかった音楽を好きになっちゃうことって。さっき言ったみたいに「私が好きになるの分かる気がする」ってのもあるんだけど、「私こんなのも好きなんか!?」ってのもあるんだよ。考えたって考えたって、「理由」だけでは好きにはなれないってことなんだよ。何せ、『ラック・オヴ・リーズン』で始まってますから。

ああ、この一連の「理由を探す旅」(?)、次の回で終わらせることができるのかなぁ。…たぶん。


魂のかたち

2004-11-02 18:19:09 | 音楽コラム
というわけで(前回参照)、自分にとっての「音楽」というものを少し考えてみることにした。しばらくお付き合い下さいませ~。

前回話した「肥えていく耳」とか「リスナーとしての成長」といったことについてはまだちゃんと自覚できていないので、まずは単純にどのような音楽が好きなのかを考えてみた。

聴く音楽は、「ロック」が多い。あと、「ポップス」とか(その境い目よく分かってないけど)。これをただ単に「好みの問題」としてしまっては話が終わってしまうので、これまたどうしてなのか考えてみる。別に、「ロックじゃなきゃダメ!」とか思っているわけではない。ただ、気付くとロックを聴いている。そんな感じ。

前回の話の中で、自分は何も変わっていない、それどころか、逆に幼稚化してるんではないだろうかとさえ思っていると書きましたが、その理由の一つに「ずっとロックを聴いている」というのもあって。そんなこと言ったって、大人になってもずーっとロックを聴いているおじさん、おばさんなんてたくさんいるし、見て下さい、ポール・マッカートニーなんて60歳超えても<シー・ワズ・ジャスト・セブンティーン>なんて歌ってますよ! それをどう説明するって言うんですか? いやいや、そうじゃなくってね、何て言うか、「聴き方」って言うのかな。私の「聴き方」が幼稚な気がしてね。じゃったら、ロックじゃなくったって同じじゃないか! まぁ、そうなんですけど、ほら、「昨日、渋谷屋根裏行ってさぁ」より「昨日、ブルーノート行ってさぁ」の方が大人っぽく聞こえません? それですよ、それ。(どれ?という突っ込みは無しでお願いします)

例えば、ジャズやR&Bにだって、自分が素直に「凄い!」と思える音楽はある。しかし、全部が全部そうだとは言わないけれど、どうも自分より「大人」な感じがしてしまうんだよねぇ。これ、何でなんだろ…。

話はズレますが、最近「ジャンルなんて関係ない!」ってよく言うじゃないですか。それはもちろんそうなんですけど、どうもこの言葉に「本当にそうか?」と疑問を抱かずにはいられないんです。だって、好きなジャンルってやっぱあるでしょ? 自分が好きになるときに「どのジャンルに属しているか」は関係ないにしても、「ジャンルに別けられている理由」はやっぱりちゃんとあると思うんですよ。

ジャンルの定義は、リズムだなんだって色々あると思うんですけど、その根底に渦巻いているものって、案外、「魂のかたち」とかそんなもんなんじゃないのかな~なんて私は思うんです。ロックにはロックの、ソウルにはソウルの、カントリーにはカントリーの、スカにはスカの、ボサノヴァにはボサノヴァの「魂のかたち」ってもんがあると思うんですよね。で、ロックの中でも、ビートルズにはビートルズの、レッド・ツェッペリンにはレッド・ツェッペリンの「魂のかたち」ってもんがあって、更にいけば、ビートルズの中でも、ジョン・レノンにはジョン・レノンの、ポール・マッカートニーにはポール・マッカートニーの「魂のかたち」ってもんがあると思うんです。

それが「音楽」となり、「ジャンル」というものが生まれて、みたいな。確かに「ジャンルなんて関係ねえよ!」と言えることはカッコ良いと思いますけど、それが「魂のかたち」となるとどうでしょう。「ジャンル」なんて言うから、こだわるのがせせこましく思われるかも知れないけど、やっぱりあるんですよ、「魂」ってもんが。だって、関係ないとか言いながら、やっぱあるでしょ? 「ロックが好きなんだー!」とか「テクノ最高!」とか。ま、「好きなアーティスト」でも良いんですけどね。

話がズレちゃいましたが、要はそういうことで。そうすると、私がロックばっか聴いてしまう所以はなんだろ~と。もしくは、ジャズやR&Bなんかを大人っぽいと感じてしまう所以はどこにあるんだろ~と。それを分析して説明していくのは、あまりにも個人的過ぎるというか、自分の中にしかない感覚になってしまうので省きますが、多分、ロックに自分の「魂のかたち」が合うってことなんでしょうね。このさき私が、大人になったり子供になったりして「魂のかたち」が変われば、聴こえ方も変わってくるんでしょう。私がブルーノートに通ったりしてるかも知れませんよ?

って、これじゃ答えになってないので、一つだけこうかもって思ったことがあったのでそれを――。私は、凄く大人な部分と凄く子供な部分が同居している、そういう両極端な(いびつな?)感じの音楽が好きなのかも知れないってことです。これは私自身の「魂のかたち」がそうだからなのかも知れませんねぇ…。

もちろん、「魂のかたち」が合えば、「ジャンルなんて関係ありませんよ!」(笑) 大好きなレゲエのアーティストいますし。ブルースだろうとヒップホップだろうとファンクだろうと好きなものは好きです。それに、単純に、合ったら好きってことでもないですからね。自分と似たようなものを感じて共鳴する場合もあれば、自分にはない何かを感じて憧れを抱く場合もあるし、反発を感じて衝撃を受ける場合もあるし、色々ですから。魂がどう反応するかです。

えぇと、この手の話題、もう少し続きます。こんな吐き出しの内容でゴメンなさい。でも、もう少しお付き合いいただけたのなら、私はとても嬉しいのです。続きはこちら


想いが言葉に変わるまで

2004-11-01 21:07:34 | 音楽コラム
ずっと滞ってしまってごめんなさい。そこにはこんな背景が――。

最近、色々な友人と会い、話をしました。その友人のほとんどが音楽好きで、音楽にまつわる色々な話をしたと思います。何も深く切り込んだ話じゃなくたって、特に音楽にまつわる話じゃなくたって、その人の音楽に対する価値観や接し方(音楽に対してだけじゃないですが)が、その人の会話を通して伝わってきます。当たり前のことなのですが、皆、音楽に対してそれぞれの思い入れを持っているんだな~と深く感動したりしました(今回に限った話じゃないですけど)。

そこで、自分の「それ」について考えてみるに、あまりにも「何もない」ということに気付かされ、愕然としてしまいました。本当は「何もない」わけではない、自分が気付いていないだけだと思い、色々と考えてみました。でも、考えど考えど、よく分からない。

例えば、音楽ファンの間で「肥えた耳」とか「成長したリスナー」とかよく言うじゃないですか。昔はよく分からなかったけど、色々な音楽を聴くうちに分かるようになった、とか。果たして、私の耳は肥えているのか。私は、初めてコンサートに行ったのも大学生だし、人に「音楽好き」と言えるくらいになったのも遅い方だと思うけど、昨日今日音楽を聴き始めたわけではない。けれど、自分ではちっともその「肥えた耳」というのを実感できない。何も変わっていない、それどころか、逆に幼稚化してるんではないだろうかとさえ思ってしまう(それに関してはいつか詳しく話せたらと思っています)。音楽好きになったのが遅いから、それが今になって取り戻せ青春的にやってきたのか、それとも、歳を取ると子供に戻るって言うから、むしろこれは老化現象なのか?とか、色々考えてはみるものの、よく分からない。

ほら、よくあるじゃないですか。例えば、アジアン・カンフー・ジェネレーションを好きになる。そのアジカンのメンバーが、オアシスやブラーなんかのブリットポップを好きだと知り、それらを聴いてみる。で、好きになる。すると今度は、オアシスがビートルズやフー、セックス・ピストルズ等に影響を受けていると知る。で、それも聴いてみる。最初はよく分からなかったけれど、何回か聴いてくうちに大好きになる。そこで、振り返ってアジカンを聴いてみると、物足りなくなっている自分がいる。自分も若かったな~みたいな。私にはそういう感覚があまりない。アジカンは最近のバンドでまだ分からないし私も詳しくなく、これは私が勝手に分かりやすいかなと思って例え話を作ってみただけなんだけど、とにかく、そういった「成長した」感覚が私にはほとんどない。

もちろん、音楽好きな友達は結構いるけど、皆が皆、「肥えた耳」や「成長過程」を自覚しているわけではないし、その経路にも絶対的なものなんてないはずだとは思うけど。ま、言ってみれば、皆、自分なりの「音楽歴」を持っているわけです。が、私はと言えば、どうだろう。高校生の頃はこれを聴いていて~とか、そういうのはあるよ、そりゃ。でも、そこに何らかの一貫性はあるだろうか。

「そんなの無くたって良いじゃん。その時に好きなものを聴けば」――うん。分かるよ。そうだと思うよ。でも、そこに何の一貫性も見つけられないとなると、なんだか自分の考え方や生き方まで、一貫性の無いちゃらんぽらんなものだったんだという気がしてきて、物凄く気持ち悪くなってしまう。自分の中で音楽の占める割合は大きい(はずだ)からこそ、尚さら余計に。

話していて、「肥えた耳」とか「成長過程」といったことをあまり意識させない友人もいる。けれど、その代わりというわけではないが、自分が好きだったどの時代の音楽についても、こういうところが好きだったとか、こうこうこうだから好きだったとか、こんな風に好きだったとか、自分にとってその音楽がどのようなものであったかをちゃんと理解しているみたいで、それをちゃんと説明してくれるし、できているとも思う。私は、どうだろうか。

このように色々考えていくと、結局は、「自分にとって音楽とはどういう存在なのか」、「音楽とは何なのか」ということに行き着いてしまう。で、色々な友人と話しているうちに、皆は、それをちゃんと自分で分かっているように私の目には映ってしまったのだ。隣の芝生は何とやらなのかも知れないが、話していて、その人にとっての音楽というものが凄く見えてきたような気がしたのだ。そりゃ皆だって、完全ではないし、今も模索中って感じだ。でも、それを楽しんでいる。音楽が好きなのだ。

でも、私は何だ? 「音楽が好き」ということさえ、自信を持って言えないような気がしてきてしまう。正確に言うと、私が好きと思っているものが「音楽」かどうかさえ分からない。自分にとって音楽って何? そもそも音楽って何? 私が大事と思って大切にしている「これ」は、もしかしたら「音楽」じゃないかも知れないのに。だとしたら?

「音楽」なんてものは、もともと何処にも存在していないのかも知れない。
それは、一人一人の中に存在しているものなのかも知れない。

色即是空。空即是色。

音楽なんてものは、空っぽ。でも、空っぽこそが、音楽。――なのかも知れないなぁ。

なーんてことを考え出してしまい、もちろん今でも考え中なわけですが、だから、日記も滞ってしまったんです。でも、このままではヤバイ!と思ったので、とにかくどうにかして吐き出していこうと思い、書いてみました。その先で、もしかしたら「音楽」と出会えるかも知れないし。

こんな内容、私以外の人が読んで面白いのかどうかまったく分かりませんが(不快にさせてたらごめんなさい!)、でも、やっぱり、聞いて欲しかったんだと思います。特に、音楽好きの人には。まだまだ想いに言葉が追いついてないけど……。

ってか、我ながら馬鹿だな~と。以前、エレカシのミ○ジが『さんまのまんま』に出たときに、ミ○ジが自分のことを「いやぁ、でも、音楽馬鹿ですよ」って言ったら、さんまさんが「いやいや、音楽付かないじゃん。ただの馬鹿じゃん!」と突っ込んでおられたことを思い出しました。この言葉、そっくりそのまま自分に当てはまるのではないかと。もはや私は、音楽馬鹿とか○○馬鹿とか、そんなカッコ良い、言い訳の効くものじゃなく、ただの馬鹿なのではないかと。以前、友達に「私、馬鹿なのかもなぁ」と言ったら、「馬鹿みたいに考えすぎる。考えなくて良いことまで考える。だから、馬鹿みたいだから、馬鹿ではないんだよ!」という、高度すぎて馬鹿な私にはよう分からん慰め(?笑)をしてくれたんですが、はてさて。

え~、こんな話題だけだと気が滅入っちゃうかも知れないので、今日のタイトルの由来である曲をご紹介。「最近気になるアーティスト【邦楽編】」で名前を挙げた古明地洋哉のアルバム『孤独の音楽』、買いました。その1曲目に「想いが言葉に変わるとき」というのがありまして、素晴らしいです。今の私に効きます。想いが言葉にならずにもどかしい想いをしていても、アコースティック・ギターの音が「言わなくても全部分かってるよ」と言ってくれてるようで、紐解かれて解きほぐされてフワ~ッとなっちゃうんです。

ちなみに、この話の続きはこちらです。