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sky is blue

言わなければよかったのに日記

想いが言葉に変わるまで

2004-11-01 21:07:34 | 音楽コラム
ずっと滞ってしまってごめんなさい。そこにはこんな背景が――。

最近、色々な友人と会い、話をしました。その友人のほとんどが音楽好きで、音楽にまつわる色々な話をしたと思います。何も深く切り込んだ話じゃなくたって、特に音楽にまつわる話じゃなくたって、その人の音楽に対する価値観や接し方(音楽に対してだけじゃないですが)が、その人の会話を通して伝わってきます。当たり前のことなのですが、皆、音楽に対してそれぞれの思い入れを持っているんだな~と深く感動したりしました(今回に限った話じゃないですけど)。

そこで、自分の「それ」について考えてみるに、あまりにも「何もない」ということに気付かされ、愕然としてしまいました。本当は「何もない」わけではない、自分が気付いていないだけだと思い、色々と考えてみました。でも、考えど考えど、よく分からない。

例えば、音楽ファンの間で「肥えた耳」とか「成長したリスナー」とかよく言うじゃないですか。昔はよく分からなかったけど、色々な音楽を聴くうちに分かるようになった、とか。果たして、私の耳は肥えているのか。私は、初めてコンサートに行ったのも大学生だし、人に「音楽好き」と言えるくらいになったのも遅い方だと思うけど、昨日今日音楽を聴き始めたわけではない。けれど、自分ではちっともその「肥えた耳」というのを実感できない。何も変わっていない、それどころか、逆に幼稚化してるんではないだろうかとさえ思ってしまう(それに関してはいつか詳しく話せたらと思っています)。音楽好きになったのが遅いから、それが今になって取り戻せ青春的にやってきたのか、それとも、歳を取ると子供に戻るって言うから、むしろこれは老化現象なのか?とか、色々考えてはみるものの、よく分からない。

ほら、よくあるじゃないですか。例えば、アジアン・カンフー・ジェネレーションを好きになる。そのアジカンのメンバーが、オアシスやブラーなんかのブリットポップを好きだと知り、それらを聴いてみる。で、好きになる。すると今度は、オアシスがビートルズやフー、セックス・ピストルズ等に影響を受けていると知る。で、それも聴いてみる。最初はよく分からなかったけれど、何回か聴いてくうちに大好きになる。そこで、振り返ってアジカンを聴いてみると、物足りなくなっている自分がいる。自分も若かったな~みたいな。私にはそういう感覚があまりない。アジカンは最近のバンドでまだ分からないし私も詳しくなく、これは私が勝手に分かりやすいかなと思って例え話を作ってみただけなんだけど、とにかく、そういった「成長した」感覚が私にはほとんどない。

もちろん、音楽好きな友達は結構いるけど、皆が皆、「肥えた耳」や「成長過程」を自覚しているわけではないし、その経路にも絶対的なものなんてないはずだとは思うけど。ま、言ってみれば、皆、自分なりの「音楽歴」を持っているわけです。が、私はと言えば、どうだろう。高校生の頃はこれを聴いていて~とか、そういうのはあるよ、そりゃ。でも、そこに何らかの一貫性はあるだろうか。

「そんなの無くたって良いじゃん。その時に好きなものを聴けば」――うん。分かるよ。そうだと思うよ。でも、そこに何の一貫性も見つけられないとなると、なんだか自分の考え方や生き方まで、一貫性の無いちゃらんぽらんなものだったんだという気がしてきて、物凄く気持ち悪くなってしまう。自分の中で音楽の占める割合は大きい(はずだ)からこそ、尚さら余計に。

話していて、「肥えた耳」とか「成長過程」といったことをあまり意識させない友人もいる。けれど、その代わりというわけではないが、自分が好きだったどの時代の音楽についても、こういうところが好きだったとか、こうこうこうだから好きだったとか、こんな風に好きだったとか、自分にとってその音楽がどのようなものであったかをちゃんと理解しているみたいで、それをちゃんと説明してくれるし、できているとも思う。私は、どうだろうか。

このように色々考えていくと、結局は、「自分にとって音楽とはどういう存在なのか」、「音楽とは何なのか」ということに行き着いてしまう。で、色々な友人と話しているうちに、皆は、それをちゃんと自分で分かっているように私の目には映ってしまったのだ。隣の芝生は何とやらなのかも知れないが、話していて、その人にとっての音楽というものが凄く見えてきたような気がしたのだ。そりゃ皆だって、完全ではないし、今も模索中って感じだ。でも、それを楽しんでいる。音楽が好きなのだ。

でも、私は何だ? 「音楽が好き」ということさえ、自信を持って言えないような気がしてきてしまう。正確に言うと、私が好きと思っているものが「音楽」かどうかさえ分からない。自分にとって音楽って何? そもそも音楽って何? 私が大事と思って大切にしている「これ」は、もしかしたら「音楽」じゃないかも知れないのに。だとしたら?

「音楽」なんてものは、もともと何処にも存在していないのかも知れない。
それは、一人一人の中に存在しているものなのかも知れない。

色即是空。空即是色。

音楽なんてものは、空っぽ。でも、空っぽこそが、音楽。――なのかも知れないなぁ。

なーんてことを考え出してしまい、もちろん今でも考え中なわけですが、だから、日記も滞ってしまったんです。でも、このままではヤバイ!と思ったので、とにかくどうにかして吐き出していこうと思い、書いてみました。その先で、もしかしたら「音楽」と出会えるかも知れないし。

こんな内容、私以外の人が読んで面白いのかどうかまったく分かりませんが(不快にさせてたらごめんなさい!)、でも、やっぱり、聞いて欲しかったんだと思います。特に、音楽好きの人には。まだまだ想いに言葉が追いついてないけど……。

ってか、我ながら馬鹿だな~と。以前、エレカシのミ○ジが『さんまのまんま』に出たときに、ミ○ジが自分のことを「いやぁ、でも、音楽馬鹿ですよ」って言ったら、さんまさんが「いやいや、音楽付かないじゃん。ただの馬鹿じゃん!」と突っ込んでおられたことを思い出しました。この言葉、そっくりそのまま自分に当てはまるのではないかと。もはや私は、音楽馬鹿とか○○馬鹿とか、そんなカッコ良い、言い訳の効くものじゃなく、ただの馬鹿なのではないかと。以前、友達に「私、馬鹿なのかもなぁ」と言ったら、「馬鹿みたいに考えすぎる。考えなくて良いことまで考える。だから、馬鹿みたいだから、馬鹿ではないんだよ!」という、高度すぎて馬鹿な私にはよう分からん慰め(?笑)をしてくれたんですが、はてさて。

え~、こんな話題だけだと気が滅入っちゃうかも知れないので、今日のタイトルの由来である曲をご紹介。「最近気になるアーティスト【邦楽編】」で名前を挙げた古明地洋哉のアルバム『孤独の音楽』、買いました。その1曲目に「想いが言葉に変わるとき」というのがありまして、素晴らしいです。今の私に効きます。想いが言葉にならずにもどかしい想いをしていても、アコースティック・ギターの音が「言わなくても全部分かってるよ」と言ってくれてるようで、紐解かれて解きほぐされてフワ~ッとなっちゃうんです。

ちなみに、この話の続きはこちらです。