これは、「想いが言葉に変わるまで」 → 「魂のかたち」 → 「ラック・オヴ・リーズン」の続きです。
かなーーーり気持ちの悪い文章なんで覚悟して下さい(笑)。
こうやって色々と考えてきて、見えてきたことがある。それは、
人と同じように、音楽にも「心」と「体」があるのではないだろうか、ということだ。
「技」もあるかも知れないが、ここでは「心」と「体」という視点で語っていきたい。「心」は、その音楽が伝えようとしていること。それは歌詞であったり、感情であったり、思想であったり、想いであったり…。「体」は、何拍子であるとか、長調・短調とか、AメロBメロサビとか、使われている楽器とか、ジャンルとか、ルーツとか…。
そして、人に対してもそうであるように、その音楽が大切であればあるほど、その「心」も「体」もすべてを大切に思うはずだ。だから、好きな音楽に対しては、歌詞だって、感情だって、思想だって、リズムだって、構成だって、ジャンルだって、ルーツだって、時代背景だって、何だって大事だし、すべてを知りたいと思うものなのだ。その中には、作り手の物の考え方や人物像だって含まれるわけだから、作り手自身の経験やら知識やらも自然と含まれる。また、自分にとってその音楽がどのようなものかという自分の解釈も含まれるし、自分以外の人がその音楽をどのように感じているのかという他人の解釈も含まれる。そして、それがどのようなリズムやメロディを構築していて、どういうルーツや時代背景に基づいているのか、それらに対する作り手の解釈やアプローチ、また、それが世間から見てどのジャンルに属するのかとか、どんな位置付けになるのかといった世間的な解釈も含まれる。それらすべてが「音楽」であり、「音楽」を構成している。だから、そういったことすべてを知りたくなるんだろうし、大事に思うんだろう。もちろん人によって興味の方向はさまざまだが、そのどれもがその「音楽」の一部であり、一人ではカバーしきれないのだろう。ってか無限?
それだから、歌詞のことだけ書かれたレヴューや精神論めいたことばかり述べられた評論に対して「これはもはや音楽じゃない」と言われたときに、頭では分かっていながらも、どこか理不尽さを感じてしまうときもあるのだろうし、リズムや構成や音色、ルーツのことだけを語られても、「それも分かるんだけど、それだけじゃないんだよなぁ」というもどかしさを感じてしまうときもあるのだろう。「魂のかたち」でも触れたように、「ジャンルなんて関係ない!」にも「ロックが好きだ!」にも頷けるが、どちらの言葉でも何か足りない、カバーできていないという感覚。それが正直なところ。
要は、自分が好きな音楽に対して、自分自身がどう捉えるかはもちろん、自分以外の人がどう捉えるかも、世間がどう捉えるかも、作り手自身がどう捉えているかも、何から何まで知りたくなるってことで(人によって差はあれど)、また、それらが「音楽」を形作っているということだ。だから、すべてが大事なわけだ。で、リズムや調やジャンルなんてものも人が考え出した概念なわけだから、音楽は「心」も「体」も、人の解釈によって形作られていて、実体がない、ということになる。や、実体は「音」なのだろうが、これは目には見えない。
しかし、果たしてそれだけか?
音楽に「心」と「体」があるのは分かった。けど、果たしてそれだけだろうか。例えば、「心」も「体」も大事ってことで、「心」の部分も語って、「体」の部分も語って、そのどちらもが大事なんだと主張しても、何か足りない。何かまだ音楽に追いついていない。いや、今まではそれに気付かずにいられたんだけど、気付いてしまったんだ。歌詞も楽曲も凄いとは思えないのに、それを頭では分かっているはずなのに、どーしても惹かれてしまうことがあると知ったから。「心」と「体」だけでは説明つかないことがあることを知ってしまったから。
だから思った。音楽は、「心」も「体」も超えたところで聴いている(鳴っている)のではないだろうかって。
「心」と「体」が別々に引き裂かれたままじゃダメなんだ。「心」と「体」を超越したものでなくては――。「大切な人」に置き換えてみて欲しい。「心」と「体」なんてハッキリ別けられるものではないし、繋がってこそのものだし、「心」と「体」を超えた「何か」じゃない?
考えてみれば、音楽を聴いているときは、その音楽が持っている「心」も「体」も関係なくなっていることが多い。いくら歌詞に感動したって、どれだけメロディに感激したって、その音楽に包まれている間は、歌詞の意味とかメロディ・ラインとかも超えて、もっと高い位置で何かを感じている。そんな気がする。もちろんそこには歌詞の意味だってメロディ・ラインだって含まれている。だけど、それらを含めた上で、それらを超越してるんだ。「心」と「体」を統べながら、「心」からも「体」からも解放された、「心」と「体」を超越したもの(感性?)になっているんだ。きっと、私にとっては、それが「音楽」なんだ。そうして初めて私の中で「音楽」になる。だからこそ、歌詞の意味が分からなくても、歌詞だけ読んでも何とも思わなくても、演奏のテクニックの凄さが分からなくても、楽曲が凡庸で稚拙に思えても、訴えかけてくるときがあるんだ。
そう考えてみると、自分が「音楽」を聴いていて快感を感じるとき、つまり、自分が「音楽」に求めているものも、「それ」なんじゃないかと思えてくる。「心」と「体」を超越すること。例えば、「音楽」を聴いている間は、自分が日本人であるとか会社員であるとか家族構成とかそういう「体という概念」も、悲しみとか怒りとかそういう「心という概念」も、忘れかけてしまう。自分を「無」にしてくれる。でも、よくよく考えてみると、それは、自分を取り巻くさまざまな環境とか経験とか知識とか、そういう自分以外のものを「無」にしてくれてることだと気付く。つまり、自分から解放してくれると同時に、真の自分(魂?)みたいなものに回帰させてくれる。しかし、そういったさまざまな環境や経験や知識などが自分を形成しているのもまた事実なわけだから、もちろんそこにはそれらも含まれている。で、それらを含めた上で、それらを超越している感じなんだよね。さっき言ったのと同じ。「心」と「体」が統べられ、「心」からも「体」からも解放され、「心」と「体」を超越する感じ。幽体離脱じゃないけれど、「心」と「体」を俯瞰している「もう一人の自分」がいて、でもそれが決して「心」からも「体」からも離れていないっていうか、「心」も「体」も「もう一人の自分」も含んでいる「全自分」っていうか。「心」と「体」がフュージョンした「何か」? 一種のトランス状態だろうか。霊的なものなのかもね。
色即是空。空即是色。
「無」であり「すべて」である自分になれる場所――だろうか。
自分が音楽に対して「何もない」と思ったのは(「想いが言葉に変わるまで」参照)、それがきっと「すべて」だったからなんだろう。…と、都合よく解釈してしまうことにしよう。今は、とりあえず。
でも、こう思えたとき、私の中で何かがスッキリしたんだよね。だから、これを読んでくれた音楽好きの人も、同じようにスッキリしてくれたのなら凄く幸せなことだな~と思って。自分勝手で自己満足なんだけど(苦笑)。でも、ここまで考えが見えたから書き出せたわけで。逆にグッタリさせてしまってたりして(苦笑)。でも、なんちゅーか、こう思えたとき、クサいけど、自分が好きな音楽に対して、他の人がどんなことを言ったとしても、それを気にしないようにするのではなく、それさえその音楽の一部として愛しちゃえば良いんだ、とさえ思えたんだよね。一瞬のことかも知れないけど(笑)。
とにかく、音楽は自由なものであって欲しいし、疎外感を感じさせるようなものではあって欲しくないと思う。
そこで、音楽を言葉で表現するってどうなんだろうって考えてみた。私は、音楽には自由な存在であって欲しいと強く思っている。でも、その音楽を言葉で表現するってことは、音楽の自由を奪ってしまうものなのかなぁとも考えてしまう。でも、気持ちとしては、「音楽をもっともっと自由なものにしたい!」ってなぐらいの気持ちで書いてるような気がする。矛盾してるのかも知れないけど、それをぶち破りたいよなぁ。いや、もともと音楽は自由なものなんだけど、それが奪われてるような気が勝手にしちゃって、音楽の自由を取り戻せー!みたいな(笑)。バカだよねぇ。でも、そんな気持ちで書くのかもな。それができてるかどうかは別として(笑)。
だから、音楽には自由な存在であって欲しいってことは、イコール、自分が音楽の前では自由な精神でいたいってことなんだよ! そのために書いてんだよ! 音楽がそうであるように、自由な精神で「心」と「体」を超越した文章で書けると良いよね。「心」と「体」が引き裂かれたままじゃなくてさ。もともとそれは一つだったんだろうし。ってか、人が勝手に別けただけなのか? それが、音楽の自由が奪われてしまってる気がしてしまう原因か?(私が勝手に気がしてるだけだけど) その音楽で、どのように「心」と「体」を超越していくのかを書けば良いのかな。ということは、その前に、その音楽で「心」と「体」を超越しなきゃならんのか。ううーん。難しいな。でもそれがしたいんだろうな。「音楽」のような「文章」を書きたいって、そういうことかなぁ。そして、それを読んだ人も、「心」と「体」を超越して、自由な気持ちになれたとしたなら、そりゃあもう、最高だよね。
って!!! ここまで読んでくれた人、本っっっ当にありがとう!!! そして、お疲れさまです。感謝してもしきれません。もう最後の方、根負けして自分でもわけ分からなくなりながら半べそかきながら抽象的なこと書いてるし(大汗)。もうヤケですよヤケ! タイトルの最後の「!」はヤケの印だと思ってもらえれば(オイ!)。また、いつか、もっとうまく言えるときがきたら、書きたいと思います。考えも変わるかも知れないし(笑)。それにこんなこと、自分一人で考え抜いたわけじゃもちろんなくて、色んな人との会話や色んなものを見て思えたことだから。それらすべてにも、ありがとう!!!
結局は、音楽、これからもよろしく~。
そして、皆さん、これからもよろしくお願いします。
ああ、しかし、こんな内面を晒すような話(?)、物凄く恥ずかしいです。良いのだろうか? これは(不安)。でも、一回は書かずにはいられなかったわけで。自分でも「バカじゃないの?」って思うくらい大げさに書いてます、はい。ま、たまには良いよね?(恐る恐る) でもなぁ、自分で説明できないもんを誤魔化したいがために無理矢理まとめてる気もするよなぁ、超越って…。ってイケナイイケナイ! とりあえず今回はこれで終わりにしないと! 旅は続くのだから!(笑)
これにて、変なトランス状態(笑)からは抜けたいと思います! できるか?
かなーーーり気持ちの悪い文章なんで覚悟して下さい(笑)。
こうやって色々と考えてきて、見えてきたことがある。それは、
人と同じように、音楽にも「心」と「体」があるのではないだろうか、ということだ。
「技」もあるかも知れないが、ここでは「心」と「体」という視点で語っていきたい。「心」は、その音楽が伝えようとしていること。それは歌詞であったり、感情であったり、思想であったり、想いであったり…。「体」は、何拍子であるとか、長調・短調とか、AメロBメロサビとか、使われている楽器とか、ジャンルとか、ルーツとか…。
そして、人に対してもそうであるように、その音楽が大切であればあるほど、その「心」も「体」もすべてを大切に思うはずだ。だから、好きな音楽に対しては、歌詞だって、感情だって、思想だって、リズムだって、構成だって、ジャンルだって、ルーツだって、時代背景だって、何だって大事だし、すべてを知りたいと思うものなのだ。その中には、作り手の物の考え方や人物像だって含まれるわけだから、作り手自身の経験やら知識やらも自然と含まれる。また、自分にとってその音楽がどのようなものかという自分の解釈も含まれるし、自分以外の人がその音楽をどのように感じているのかという他人の解釈も含まれる。そして、それがどのようなリズムやメロディを構築していて、どういうルーツや時代背景に基づいているのか、それらに対する作り手の解釈やアプローチ、また、それが世間から見てどのジャンルに属するのかとか、どんな位置付けになるのかといった世間的な解釈も含まれる。それらすべてが「音楽」であり、「音楽」を構成している。だから、そういったことすべてを知りたくなるんだろうし、大事に思うんだろう。もちろん人によって興味の方向はさまざまだが、そのどれもがその「音楽」の一部であり、一人ではカバーしきれないのだろう。ってか無限?
それだから、歌詞のことだけ書かれたレヴューや精神論めいたことばかり述べられた評論に対して「これはもはや音楽じゃない」と言われたときに、頭では分かっていながらも、どこか理不尽さを感じてしまうときもあるのだろうし、リズムや構成や音色、ルーツのことだけを語られても、「それも分かるんだけど、それだけじゃないんだよなぁ」というもどかしさを感じてしまうときもあるのだろう。「魂のかたち」でも触れたように、「ジャンルなんて関係ない!」にも「ロックが好きだ!」にも頷けるが、どちらの言葉でも何か足りない、カバーできていないという感覚。それが正直なところ。
要は、自分が好きな音楽に対して、自分自身がどう捉えるかはもちろん、自分以外の人がどう捉えるかも、世間がどう捉えるかも、作り手自身がどう捉えているかも、何から何まで知りたくなるってことで(人によって差はあれど)、また、それらが「音楽」を形作っているということだ。だから、すべてが大事なわけだ。で、リズムや調やジャンルなんてものも人が考え出した概念なわけだから、音楽は「心」も「体」も、人の解釈によって形作られていて、実体がない、ということになる。や、実体は「音」なのだろうが、これは目には見えない。
しかし、果たしてそれだけか?
音楽に「心」と「体」があるのは分かった。けど、果たしてそれだけだろうか。例えば、「心」も「体」も大事ってことで、「心」の部分も語って、「体」の部分も語って、そのどちらもが大事なんだと主張しても、何か足りない。何かまだ音楽に追いついていない。いや、今まではそれに気付かずにいられたんだけど、気付いてしまったんだ。歌詞も楽曲も凄いとは思えないのに、それを頭では分かっているはずなのに、どーしても惹かれてしまうことがあると知ったから。「心」と「体」だけでは説明つかないことがあることを知ってしまったから。
だから思った。音楽は、「心」も「体」も超えたところで聴いている(鳴っている)のではないだろうかって。
「心」と「体」が別々に引き裂かれたままじゃダメなんだ。「心」と「体」を超越したものでなくては――。「大切な人」に置き換えてみて欲しい。「心」と「体」なんてハッキリ別けられるものではないし、繋がってこそのものだし、「心」と「体」を超えた「何か」じゃない?
考えてみれば、音楽を聴いているときは、その音楽が持っている「心」も「体」も関係なくなっていることが多い。いくら歌詞に感動したって、どれだけメロディに感激したって、その音楽に包まれている間は、歌詞の意味とかメロディ・ラインとかも超えて、もっと高い位置で何かを感じている。そんな気がする。もちろんそこには歌詞の意味だってメロディ・ラインだって含まれている。だけど、それらを含めた上で、それらを超越してるんだ。「心」と「体」を統べながら、「心」からも「体」からも解放された、「心」と「体」を超越したもの(感性?)になっているんだ。きっと、私にとっては、それが「音楽」なんだ。そうして初めて私の中で「音楽」になる。だからこそ、歌詞の意味が分からなくても、歌詞だけ読んでも何とも思わなくても、演奏のテクニックの凄さが分からなくても、楽曲が凡庸で稚拙に思えても、訴えかけてくるときがあるんだ。
そう考えてみると、自分が「音楽」を聴いていて快感を感じるとき、つまり、自分が「音楽」に求めているものも、「それ」なんじゃないかと思えてくる。「心」と「体」を超越すること。例えば、「音楽」を聴いている間は、自分が日本人であるとか会社員であるとか家族構成とかそういう「体という概念」も、悲しみとか怒りとかそういう「心という概念」も、忘れかけてしまう。自分を「無」にしてくれる。でも、よくよく考えてみると、それは、自分を取り巻くさまざまな環境とか経験とか知識とか、そういう自分以外のものを「無」にしてくれてることだと気付く。つまり、自分から解放してくれると同時に、真の自分(魂?)みたいなものに回帰させてくれる。しかし、そういったさまざまな環境や経験や知識などが自分を形成しているのもまた事実なわけだから、もちろんそこにはそれらも含まれている。で、それらを含めた上で、それらを超越している感じなんだよね。さっき言ったのと同じ。「心」と「体」が統べられ、「心」からも「体」からも解放され、「心」と「体」を超越する感じ。幽体離脱じゃないけれど、「心」と「体」を俯瞰している「もう一人の自分」がいて、でもそれが決して「心」からも「体」からも離れていないっていうか、「心」も「体」も「もう一人の自分」も含んでいる「全自分」っていうか。「心」と「体」がフュージョンした「何か」? 一種のトランス状態だろうか。霊的なものなのかもね。
色即是空。空即是色。
「無」であり「すべて」である自分になれる場所――だろうか。
自分が音楽に対して「何もない」と思ったのは(「想いが言葉に変わるまで」参照)、それがきっと「すべて」だったからなんだろう。…と、都合よく解釈してしまうことにしよう。今は、とりあえず。
でも、こう思えたとき、私の中で何かがスッキリしたんだよね。だから、これを読んでくれた音楽好きの人も、同じようにスッキリしてくれたのなら凄く幸せなことだな~と思って。自分勝手で自己満足なんだけど(苦笑)。でも、ここまで考えが見えたから書き出せたわけで。逆にグッタリさせてしまってたりして(苦笑)。でも、なんちゅーか、こう思えたとき、クサいけど、自分が好きな音楽に対して、他の人がどんなことを言ったとしても、それを気にしないようにするのではなく、それさえその音楽の一部として愛しちゃえば良いんだ、とさえ思えたんだよね。一瞬のことかも知れないけど(笑)。
とにかく、音楽は自由なものであって欲しいし、疎外感を感じさせるようなものではあって欲しくないと思う。
そこで、音楽を言葉で表現するってどうなんだろうって考えてみた。私は、音楽には自由な存在であって欲しいと強く思っている。でも、その音楽を言葉で表現するってことは、音楽の自由を奪ってしまうものなのかなぁとも考えてしまう。でも、気持ちとしては、「音楽をもっともっと自由なものにしたい!」ってなぐらいの気持ちで書いてるような気がする。矛盾してるのかも知れないけど、それをぶち破りたいよなぁ。いや、もともと音楽は自由なものなんだけど、それが奪われてるような気が勝手にしちゃって、音楽の自由を取り戻せー!みたいな(笑)。バカだよねぇ。でも、そんな気持ちで書くのかもな。それができてるかどうかは別として(笑)。
だから、音楽には自由な存在であって欲しいってことは、イコール、自分が音楽の前では自由な精神でいたいってことなんだよ! そのために書いてんだよ! 音楽がそうであるように、自由な精神で「心」と「体」を超越した文章で書けると良いよね。「心」と「体」が引き裂かれたままじゃなくてさ。もともとそれは一つだったんだろうし。ってか、人が勝手に別けただけなのか? それが、音楽の自由が奪われてしまってる気がしてしまう原因か?(私が勝手に気がしてるだけだけど) その音楽で、どのように「心」と「体」を超越していくのかを書けば良いのかな。ということは、その前に、その音楽で「心」と「体」を超越しなきゃならんのか。ううーん。難しいな。でもそれがしたいんだろうな。「音楽」のような「文章」を書きたいって、そういうことかなぁ。そして、それを読んだ人も、「心」と「体」を超越して、自由な気持ちになれたとしたなら、そりゃあもう、最高だよね。
って!!! ここまで読んでくれた人、本っっっ当にありがとう!!! そして、お疲れさまです。感謝してもしきれません。もう最後の方、根負けして自分でもわけ分からなくなりながら半べそかきながら抽象的なこと書いてるし(大汗)。もうヤケですよヤケ! タイトルの最後の「!」はヤケの印だと思ってもらえれば(オイ!)。また、いつか、もっとうまく言えるときがきたら、書きたいと思います。考えも変わるかも知れないし(笑)。それにこんなこと、自分一人で考え抜いたわけじゃもちろんなくて、色んな人との会話や色んなものを見て思えたことだから。それらすべてにも、ありがとう!!!
結局は、音楽、これからもよろしく~。
そして、皆さん、これからもよろしくお願いします。
ああ、しかし、こんな内面を晒すような話(?)、物凄く恥ずかしいです。良いのだろうか? これは(不安)。でも、一回は書かずにはいられなかったわけで。自分でも「バカじゃないの?」って思うくらい大げさに書いてます、はい。ま、たまには良いよね?(恐る恐る) でもなぁ、自分で説明できないもんを誤魔化したいがために無理矢理まとめてる気もするよなぁ、超越って…。ってイケナイイケナイ! とりあえず今回はこれで終わりにしないと! 旅は続くのだから!(笑)
これにて、変なトランス状態(笑)からは抜けたいと思います! できるか?