人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

いつの間にか

2023-04-09 09:22:00 | 祈りと瞑想
何か気持ちが塞いでしまう、思いに囚われてしまう...そういう時は、いつも言っているように祈ることに限ります。
そこで、”祈ったってどうなるってもんじゃない!”、っていうものが出て来たりする...それはそういう思い、ということです。
ここで、祈るとは、広く意識を神的なものに向ける、ということでもあり、どんな祈りの文句、形にも関わらないもののことを言っています。
自分にもっとも親しみがあり、フィットするものがいいでしょう。
私も、そういう思いに囚われてしまうこともあります。今でも!...きっと、修行が足りないのでしょう?
それで、修行の進んだ、悟ったような人間のフリなどしてたってしょうがないのです。それだから、いつまで経っても思いを超えたものに開かれないのです。
それは、祈りが行というものに囚われてしまうからでしょう。
五井先生の道でも、”消えてゆく姿で世界平和の祈りをし続けていても、中々心が安らかにならない”、という人も居ますが、どこかそういう思いに囚われているところがあるようです。
自分の思い、力で思いが消えてゆく訳が無いのに...こういう祈り、行みたいなもので必ず事象がよくなる、幸福になる、悟れる...なんてことも思う必要などありません。そう思うだけだったら...だったら、あれこれ考えてないで、考えたら考えたままでいいから、祈ったらいい!
自分に合わないものを感じたら、少しそれから離れてみて、もっと自由な、広い心持ちで、自分が自然に惹かれる、フィットするものに変えてみる...それでは”み教え”に反して、救いの道から外れる?...だから、そういうのは思っているだけなのでは無いのか?
私自身の神そのものを信じないで、意識を向けないでどうするのか!
それから外れて、救いの道などある訳無いではないか!
とにかく祈ってみる、意識を向けることです。
すると...いつの間にか、思いから離れて、安らぎがもたらされる...
”いつの間にか”、ということは、思いを超えたところから、ということに他なりません!
祈ることと、思いが消えてゆくというのは別のことじゃ無いのです。
あらゆる思いを神の中に投げこむ...五井先生の教えの根本は、こういうところにあるのでしょう。
親鸞さん的には、”弥陀にたすけられ申すだけ...他に子細は無い!”、ということでしょう。
南無...アーメン...かむながらたまちはえませ...
祈りは数多あるようでも、根本的には一つしか無いのでしょう...。

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