人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

待ち望み、ゆだねる

2023-04-11 09:31:01 | 祈りと瞑想
精神的な道には、悟りや目覚めなどを目的にした、数多の教え、方法があります。
いつも言っているように、私はそういうものは重視しておらず、明示してこなかったのです。
祈ることを除いては!
だからか、逆に何故、諸々の方法は伝えても、祈ることは疎かにされていたりするのか、と思ってしまうのです。
自分を超越した神なんか認められないということなのでしょうか?...別に信じまいと、認めまいと構わないでしょうが...
しかし...有神論や神信仰といったものから離れてみても、私にはどうしても、どうあっても感じずにおれないものがあるのです。
それは、こちら側からその目的とされる方への道づけとなる方法といったものを超えて、その自己を超えた方へと、こちらを促し、誘い、導かんとするあるハタラキのことです。
私が多く”神、神的なもの”、と言っているものはこのものに他なりません。
私には、どうしても、こうしてもこのもの無しにそうした道そのものが成り立たない、と感じてならないのです!...一体どうして歩み続けて居られるんですか?、と。
例えば、自分の思い、力で思いを超えることが出来ない、それはこのものによって開かれる、ということ一つ(これが大きなこと)とっても分かりそうなものではありませんか?
自力修行を重んじる向きは、それは我々の叡智、仏智の為せるものだ、と言うかもしれませんが、それは日常の思いを超えたものであるのは同じでしょう。
超越的な神だろうと、内在的叡智だろうと、そのものを待ち望むより、道は開かれてこないのではありませんか?
待ち望む...それが、即ち祈りということです。
しかし、私には何にも無い、何の“ケ”も無いものを待ち望む、という感じはしてこないのです。
意識を向ける、といつも言ってますが、何にも無いものには向けられないのです。
それは、こっちの思いに先立ってあるもの...それが、あちらからこちらにそっちの方へと仕向けよう、導こうとするあるものなのです。
待ち望もうとした時には、その感じは既に伝わって来る...
要するに、道というのは、それにゆだねる、任せ切るに然くはない、ということになるでしょう。
その上で、自分の考えで、“いや、そんなことより、こっちには、この方法がある!”、と固執したりするのは、却ってその道を塞いでしまうことになるのではないでしょうか?
自分の思いを超えて、又その前からあるものには、待ち望み、ゆだねるしか無い!
思いの外にあるものなんか、何だか分からないものには、ゆだねられない!、ですって?
それはだから、自分の思いの他、愛を、幸福に感じてやまないものがあるから、いつの間にかゆだねられてしまうことなのです...!
それは、こちらが祈るより先に祈らされている、ということなのでしょう?!
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