このブログで私は、ソコハカとなく"隠れていたものが現れる"、"裏が表になる"といった、ムードを漂わせるようなことを書いているのです。
こうして文字に、文章に書き表している事自体が、拙いながらもそういう試みをしている次第なのです。
それは私の意志でもあり、何ものかの促しによるものでもあるようなのです。
ドイツの神秘思想家ヤーコプ.ベーメは、一切の始源の様相について、こう言っています。(真実はそこに如何なる相も形も無いのでしょうが、以下の事柄は到底言葉で言い表し難い消息を伝えているのです)
「神は自己自身のうちにあって、自然と被造物に対する一つの意志もなく、一つの永遠の無なるものとして"無底"である」(恩寵の選択について)
そしてそこから欲求、あこがれ、意志が生じ、そこに無から有へと向かうハタラキというものが起こり、光と闇、歓喜と苦痛といった両極性も生まれてきます。
闇、苦痛...悪の顕現...それはものの本来性からの"離脱"、"破れ"である...それは又無底のうちに隠れた自由の発露...原初よりの自由意志の現れでしょう。
こうした事は、我々の精神の内奥の様相と相応していると言っていいでしょう。又そうでなければ自分自身のこととして理解することも出来なくなります。
ベルジャーエフは、より多くそうした観点から根源的無"深淵"と自由との関連について述べていますが、上記のベーメのそれとは、あるところで重要な差異を見せています。
「根源的自由は、ベーメの場合神のうちにあるのに対し、自分の場合は神のそとにある」「自由は永遠の昔から無の深淵に存在している。故に自由は神によって決定されない」(人間の運命)
ベーメによれば無底も自由、悪の成り立ちも神のうちにあるとされます。すると本来的には我々には自由意志は無く、そこから派生する悪しき事態も我々に帰されることは無いということになるでしょうか?
この解釈の相違は、そのまま純然たる神秘思想家として生きたベーメと、社会問題などより現実生活とも関わり、所謂実存主義が台頭していた時代に生きたベルジャーエフの違いと言ってもいいでしょう。
何か二元論と非二元論をめぐるテーマみたいですが、どっちがどっちなど考えたって分かりませぬi
ことに神のことや根源のことなど...ただ、いつも好き勝手してるからバカを見てばかりいる、とは言えることです。神の指図など受けちゃいませんi
これはしかし、そう思っている自分が感じているだけで、事実は神的命とともに無ければ寸時も生きることが出来ないのです。
こっちの勝手な思いの世界というのは、神の治外圏なのでしょう。大本の方では一つの意志しか無いようにも感じています。
これに関してベーメは、先の二分化のプロセスについて「一方が無として他方のうちに内在する」と言っています。
つまり、無は無としてとどまりながらも、分離することなく相対、多様に向かうということです。神には無なる神と顕れる神という二相があるようです。
一方、ベルジャーエフには、神と独立した自由なる人間の尊厳性を強調しつつも、「悪の克服は神人キリスト、人間そのものに内在した神人性によってなされる」と述べられ、両者ともそれぞれの理解で"どっちか"に分かたれ得ない消息のことを伝えているのです。
日に日に身に覚え感じるのは、見えざるものの顕れ出ようとする意志です。
それは初めて現臨に捉えられた時、ハッキリと感じられたのです。何か畏れ多くも、あちらの方から"お前が受けたことを証して欲しい"と頼まれたように感じました。
と言っても長いこと、それをどう表していいか分からなかったのですが...
人生というものは、決して一コの個人だけの思いからは分からないものです。所謂精神的覚醒というものも隠れた内なる意志の表れといえるでしょう。
見えざる現臨が顕わになるにつれ、一にして多なる意志がありやかになってくるのを感じています。
こうして文字に、文章に書き表している事自体が、拙いながらもそういう試みをしている次第なのです。
それは私の意志でもあり、何ものかの促しによるものでもあるようなのです。
ドイツの神秘思想家ヤーコプ.ベーメは、一切の始源の様相について、こう言っています。(真実はそこに如何なる相も形も無いのでしょうが、以下の事柄は到底言葉で言い表し難い消息を伝えているのです)
「神は自己自身のうちにあって、自然と被造物に対する一つの意志もなく、一つの永遠の無なるものとして"無底"である」(恩寵の選択について)
そしてそこから欲求、あこがれ、意志が生じ、そこに無から有へと向かうハタラキというものが起こり、光と闇、歓喜と苦痛といった両極性も生まれてきます。
闇、苦痛...悪の顕現...それはものの本来性からの"離脱"、"破れ"である...それは又無底のうちに隠れた自由の発露...原初よりの自由意志の現れでしょう。
こうした事は、我々の精神の内奥の様相と相応していると言っていいでしょう。又そうでなければ自分自身のこととして理解することも出来なくなります。
ベルジャーエフは、より多くそうした観点から根源的無"深淵"と自由との関連について述べていますが、上記のベーメのそれとは、あるところで重要な差異を見せています。
「根源的自由は、ベーメの場合神のうちにあるのに対し、自分の場合は神のそとにある」「自由は永遠の昔から無の深淵に存在している。故に自由は神によって決定されない」(人間の運命)
ベーメによれば無底も自由、悪の成り立ちも神のうちにあるとされます。すると本来的には我々には自由意志は無く、そこから派生する悪しき事態も我々に帰されることは無いということになるでしょうか?
この解釈の相違は、そのまま純然たる神秘思想家として生きたベーメと、社会問題などより現実生活とも関わり、所謂実存主義が台頭していた時代に生きたベルジャーエフの違いと言ってもいいでしょう。
何か二元論と非二元論をめぐるテーマみたいですが、どっちがどっちなど考えたって分かりませぬi
ことに神のことや根源のことなど...ただ、いつも好き勝手してるからバカを見てばかりいる、とは言えることです。神の指図など受けちゃいませんi
これはしかし、そう思っている自分が感じているだけで、事実は神的命とともに無ければ寸時も生きることが出来ないのです。
こっちの勝手な思いの世界というのは、神の治外圏なのでしょう。大本の方では一つの意志しか無いようにも感じています。
これに関してベーメは、先の二分化のプロセスについて「一方が無として他方のうちに内在する」と言っています。
つまり、無は無としてとどまりながらも、分離することなく相対、多様に向かうということです。神には無なる神と顕れる神という二相があるようです。
一方、ベルジャーエフには、神と独立した自由なる人間の尊厳性を強調しつつも、「悪の克服は神人キリスト、人間そのものに内在した神人性によってなされる」と述べられ、両者ともそれぞれの理解で"どっちか"に分かたれ得ない消息のことを伝えているのです。
日に日に身に覚え感じるのは、見えざるものの顕れ出ようとする意志です。
それは初めて現臨に捉えられた時、ハッキリと感じられたのです。何か畏れ多くも、あちらの方から"お前が受けたことを証して欲しい"と頼まれたように感じました。
と言っても長いこと、それをどう表していいか分からなかったのですが...
人生というものは、決して一コの個人だけの思いからは分からないものです。所謂精神的覚醒というものも隠れた内なる意志の表れといえるでしょう。
見えざる現臨が顕わになるにつれ、一にして多なる意志がありやかになってくるのを感じています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます