人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

囚われる信仰、捉えられる信仰

2020-11-26 11:51:33 | スピリチュアル
いつも信仰について否定的なこと書いているのかもしれませんが、私はというと...神信仰していない日など無いくらいです(笑)
要するに、とかく信仰というのは、観念、思念に支配されやすいもので、それはどこまでもヴァーチャルなものでしかない、ということを言いたいのです。
そして、それを解き、開くものは神的なハタラキによると言っているのです。そういうものに根差した信仰というものは勿論有るでしょう。
だから、どんどん信仰心を深くし、高め、強くしなければいけないのですi...なんちゃってi
そーンなこた、言いませんi
言葉の捉え方次第では、どんどんそういう思念の方が強くなって行くだけでしょう。
神に意識を向け、受け入れることは、そういうものが無化されること...それが思いを超えるということに他なりません。
霊的進化か何か知らないけど、思われた自分がいくつか段階を上って行って何かに到達するとかっていうのは、勿論この相対的現実世界では、成長だとか進歩とか言って、あることに違いないのですが...そういう思い自体が出てこなくなってしまうのです。
"自分は高まって行ってる"、なんて思っていても、ゼロに戻されてしまう...自分は無知で無力だ、ということを思い知らされるだけ...何にもありゃしない、残りゃしない...そーンなこた、無い!(かも?)
"神的なものが臨んでいる、現臨しているではないかi...そういうものを信じ、仰ぎ見ているのではなく、ここに自分と相即して来ているではないかi"
人が低い方から高い方を目指したりするのは、より幸福になろうとするからだと思われますが、そのものと共にあれば、そういうものとは関係なく幸福に感じられるでしょう。
これは思いが超えちゃっているから、そういうことになるのです。しかも、それは自分の力でそうなるんじゃない...どこまでも恩寵のなせる業なのです。
こういう何も考えない、何もしないようなことをこの世のことに適応したら、多分おまんまの食い上げになるでしょう。
ただ、それについてはあまり考えられないのですが、逆に霊的進化というか、誰もがそれを目指して奮闘努力しているようなことは、どうしてもこの有り様には適応出来ません。
もし、強いて適当な表現に準えるならば、イモムシが蝶になるように、この自分は別の有り様に"化される"ということになるでしょうか?(ゲーテはそういう風なことを言っていたんでしたっけ?)
要するに、思われたままの自分が悟ったり、進化したりするんじゃない...
かつては、自分が信じる対象として神というものを描いていました。
それが思いを突破して意識に飛び込んで来てからは...だんだん私というものはあちらに取られて行ってしまうようなことに...ふと、そんなことが過らされる今日この頃なのです。
信仰と言ってもイロイロ...神に囚われるのも信仰、捉えられるのも信仰...かも?
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