人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

主一の道

2019-09-05 11:49:26 | 求道、探究
「我は道なり、真理なり、命なり」(ヨハネ福音書14章)

私がムシズが走るほどキライなキリスト教...
されど、理屈を超えて惹かれてやまないのもキリスト教...
私がなんでかくも惹かれてしまうのか、こうして書いているうちに何となく分かってきました。
そこで伝えられる"聖霊"のことをちょっと前に書かせてもらいました(「聖霊の新時代」)が、それと関連してですが、そもそもいつも書いている"意識が自ずと赴く"とはどういうことなのでしょうか?
そうせざるを得ないものがあるということです。ここに来ているi
それを仮に主イエス.キリストと呼んでも、阿弥陀仏と呼んでも構わないと思うのですが、現に目の当たりにここにそれが臨んでいるということは、これはもはや本尊とか信仰の対象とされるものを超えているのです。
"この道"は、そのものがアルファにしてオメガ...こっちの意識が赴いてしまうその"当体"こそが道なのです。
数多の宗教、精神的な道では、各々教義、修行、儀式などが設えられています。
それらは、いずれもその当体につながる方便として存在するものであれ、その性質上必ずしも当体と直結しているとは限らないものです。
逆に言うと、切り離されてしまうこともある、否その直接性から一歩"段構え"のものと為らざるを得ないでしょう。
そして当体から切り離されてしまえば、それらは独り歩きし始め、段々ズレてゆくことになるのです。
信仰、修行、勉学、平和運動、奉仕活動...第一義のものから分離したこれらのものは、一体何のためにやってんだか分かりません。
"信仰のための信仰、修行のための修行"というのはこういうことです。
悟りとか精神的目覚めを求めることさえ、そもそものその機縁となるものからズレてしまいます。
神意にない完全覚醒、最終解脱といったものが、一体どういうものなのでしょうか? 
宇宙存在のエサになるのかどうか知りませんが、究極の境地を目指した当人は、もはやどこにも居ない...宇宙のもくずと消えるしかないでしょう。
この点、キリスト教は、ややこしい修行だの、何かの境地に達しようという道は、あまり伝えて来ませんでした。
本当のノンデュアリティとは、宗派以前の原始の福音にこそ求められるのではないか?
何ーんて言うと、鬼の首を取ったような気でいるご仁も居やしないでしょうか?
信じている主イエス様ご自体が道なんですからね。このエス様を信じないと誰も父とつながることは出来ないのですからね。
だから...私はそうやって、ただ意識が無条件に赴いてしまう事態のことを、条件を沢山付加して"信仰ごと"にスリ替えてしまうキ教は大キライだ、と言っているのですi
信仰も修行も何にも要らない、手垢のついていない、"このすべてで一なる、主一の道"こそが慕わしい...
原始のもの、大本なるものの復権...方便の時代は終わった...
ただ、もう私自身の主とつながらざるを得ない...
"この道"のことは、あなたがあなた自身の主とつながるならば、必ずや身が頷かされるものがあるはずです。
それは数多の道を超えて万人に開かれた道に他なりません。
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