人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

見えざる導き

2020-01-16 12:05:51 | ガイダンス
私が40年前、現臨らしきものを感じ始めてから約一年間、ごく短期間のうちに次々と気付きをもたらすような縁と出会わされました。
多くは書物を媒体としたものでしたが、小池辰雄先生、ベルジャーエフ、マクドナルド.ベイン...それ以前から知っていたものでも、日月神示、要之神示(カナメノツタエ。丹後から今でも発信されている、三六九神示の前身と言えるもの)などにさらに共感するようになり、又それまでは難しくて中々読みこなせなかった、大調和協会の命御様の書き物が急に読めるようになったのもこの頃でした。
私はこういう縁を頂いたことを忘れたことがありません。
それらの書物に触れる度に、何か意識が拡大し、高揚してくるのを覚えました。
それと同時に、これはこの頃の特徴だったのですが、もっと具体的な感覚で、手の辺りに暖かみを感じ、それが顔の辺り(特に耳と顎の中間やヒタイの辺り)まで広がるというものでしたが、今もずっとあるもので、そういうことになっている間、ずっと感じられるものは、そう、"じんじん"とした感覚です。
これがあるから忘れることが出来ないとも言えるのですが、こうした出会いがその後の私の歩みに大きなトレースを残しているのです。
私は不思議とそういう縁に引き合わされ、そういう感覚が芽生えてくるのを感じる度に、何かに導かれていることを感じずにおれませんでした。
それが"見えざる導き"と言っている由縁なのです。
いつも言っているように、これはその姿が見えないのは勿論、"ああしなさい、こうしなさい"といった、言葉を持ってするものでもなく、"内なる促し"として感じられるものなのです。
言い換えると、導かれる方に意識が向かう、向かわされるというか...内側に意識付けられるというか...そこから声なき声で、"Go On!"と促されているような感じです。
上記したようなことは、上っ調子に関心が移ってゆくように感じられなくもなく、"これでいいのか?"と思ったりもするのですが、"それでいいんだi"、とこれ又自ずとそう思っている頭でなしに、身が頷く感じになったりするのです。
まあ、それらの縁に触れる度に、言葉では言い表されない高揚感を覚えるのだから、悪い訳が無いのですけど...
私にはこうなる以前に、一つの宗教教団に従属させられて不自由な思い、それが如何に相対観念に囚われていたかが思い知らされていたから、そのように導かれたのだと思います。
言うまでもないことですが、これは私の人生でのことであり、誰にもマネなど出来ないものです。ヘタにマネして"へんてこりん"になっても知りませんよi
あなたにはあなたの導きがあるのでしょうから...。
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