人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

イメージと心象に息づくもの

2022-10-13 10:00:06 | 祈りと瞑想
意識を何かに向けると、パッと何かが臨む(現臨)というのは、最初だけ、”向けよう”という人為的意志を働かせるのですが、それがあっという間に思いから離れ、無為的な意識状態に切り替わる、ということを言っています。意識構造がそのように自動的に換わるのです。
当たり前のことですが、人為的な意識状態の時は、無為的な状態にはなれません。逆も又然りです。
何でその何かに向けるとそうなるかと言うと、それは思いを超えたものだからでしょう。
少し前に、いつもコメントを下さる方から、”現臨についてあるイメージをしてみて下さい”、と言われたのですが、現実問題としてそれは困難なことなのです。
どうしても意識がロックがかかったようで、そのように動いてくれません。
だってそれは、能動的に、人為的な意志でイメージしようということなのでしょう?
意識構造的に、物理的?に無理なのです。
しかし、その方は現臨と関わるようなイメージとして、自体が小宇宙のような巨人のようなもの(こういうもので合ってたかな?)が描かれているようで、それを”イメージ出来ないか”、と又言われます。
う~ん、イメージ?...その巨人を思い描く?...その必要は無い!...既に描かれてあるから!
これは、初めて神の手に捉えられて、人生の裏側を目の当たりにした時、曰く言い難いものながら、後にイメージとして、そのわが内に息づいているものとして、意識に浮かび上がったものが、正にその巨人の如きものだったのです。
それは、無数の個体からなる有機的結合体のようでありながら、全体のイメージとしては、個なる巨人像がある...こういう感じのものをニューサイエンスなどの本で、フラクタル構造と呼んでいるのを後日知りました。
こういうことは、能動的に頭を巡らしたり、イメージを構築させたりすることとは違うのです。
意識の内奥に既に描かれて在る。息づいていると言ってもいい!
抽象的に思い描くものじゃなくて、具体的に生きているものだからパッと浮かび上がるのです。
こうしたものを私は、”心象に描かれたもの、息づくもの“、と言っています。
現臨というものは、まさしくそういうものなので、自ずと意識が向いてしまうのです。
これについて私には、上記したような原体験があるからそういう世界が開かれるとは、一応は言えるかもしれません。
しかしどうして、そもそもそういう体験に導かれたのでしょうか?
あまり自覚はしてきませんでしたが、神的なものなど、もともと心象に息づいているもの抜きには考えることが出来ません。
意識してみて下さい!...誰しもそういうもの、心の奥で描かれて在るでしょう?
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 祈りは方法を超えている | トップ | 本願の普遍性 »

コメントを投稿

祈りと瞑想」カテゴリの最新記事