人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

カルトの温床

2018-07-16 12:29:32 | スピリチュアル?
オウム真理教事件に際して、宗教関係者の中で、"これは自分たちの問題と切り離すことは出来ない..."と受けとめた人は果たして何人居たでしょうか?
大方の団体関係の人は、"我々はあんな邪教とは訳が違う、正統な教えを伝え、健全に営んでいるのです"と、オウムを悪いサンプルにし、自分たちのマトモさをアッピールしていたのではないでしょうか?
そうでなければ、自分たちは棚に上げて、マットウな宗教論、信仰論を抽象的に展開するかというものでしょう。
しかし、私は強く感じていますi オウムを始め、カルトの問題は"信じる"宗教、スピすべてに内包し、潜在している問題だということを...何の神を、どんな教えを信じるかではなく、信じるということ自体にカルト化の温床が隠れているのではないか?ということです。
私は興味本位にウカツに近づいた以外(カルトのレッテルを張っていいのか微妙な新宗教には学生時代入信していましたが)カルトと呼ばれる団体との接点は無かったと言っていいのですが、いくつかの宗教的団体とは関わりがあったので、そう感じているのです。
どこの団体でも、多く私の内面と激しく衝突する要因となったのですが、一人や二人は独善的な原理主義的な傾向の信者というものは居たものです。
これはその団体がマトモであるか、否かに関わらずそういう傾向を持った個人が数人居たということなのですが、その因子は実は私の中にもあると認めざるを得ません。だからこそ、私はそれにハマったこともあるし、そのことを教訓にも出来ようというものです。
カルト化とは、この潜在的因子の増幅加減に依っていると言えるでしょう。
では、この因子はどのようにして増幅して行くのでしょうか?
まずは、その一個人的な因子から超え出て、二人、三人と正に細胞分裂のように、集団化に向かい働き始めるということです。これに向かわないところに原理主義もカルトも生まれないと言ってもいいでしょう。
この因子には、自己をアッピールをし、取り込むべき他者の存在が不可欠なのですから...
言い換えると、独立した人間の生き生きとした個性のあるところ、その増殖は押さえられるということです。
そして又、オウムを始めとしたカルト宗教の説法、アジなどに接してみて、このような印象を持ったことはないでしょうか?
"ああ言えば饒舌、こう言えば冗漫"じっつに理路的、理に叶っていればすべて正しいみたいに自分勝手に展開している...
"彼らはなるほど真理を追求していたのか...真理を語っているつもりなのか...彼らの語る真理とは実に爬虫類を思わせるように、"ぬっぺり"としているものだ..."
彼らには、人間を人間たらしめている肝心なものが欠落していると感じた人も多かろうと思います。
彼らの口調には、彼ら流の真理、もしくは正義に取り付かれている様が伺えます。何が真理で何が正義かは(それが問題ではあるが)、ここでは置いとくとして...この肝心なものを欠いたままの真理や正義というものが果たしてあるでしょうか?
これはこの問題に限らず、今日の人類の普遍的な問題として考えるべきことと言いたいのですが、彼らは何を欠いているのでしょうか?
それに対して、この世界は、即答出来る言葉を多分見つけられないでしょう。
そうですi それこそが今日の人類に普遍的に横たわっている問題なのですi
私が先日久しぶりにテレビに映し出された彼らのカルト説法に接して、端的に感じたことは、彼らは"Lost Soul"だということです。
何か理詰めな言葉だけが一人歩きしている...その人格を光輝かせている、その焦点、核ともなり得るもの...魂と言おうか、そういうものを欠いていて、ペラペラなそのコピーを演じているようにしか見えないのです。
そして毎日のように放映される不祥事の弁明会見など、随所にその様を見ることが出来るでしょう。
他に代えることの出来ない魂を、擬似的な神に明け渡してしまったのでしょうか?
如何なる真理、正義が説かれようと、そのものを欠いた真理、正義というものはそもそも存在しないでしょう。
愛と切り離された真理も正義も生きた人間のそれとはなり得ない...それは地球外の、爬虫類のそれでしょうi(あのね、レプティリアンがどうした、こうしたってことじゃないですよ!)
カルト化とは、そもそも一人一人の魂の在り方、愛というものから切り離され、理に走ってしまうところから生まれるのではないでしょうか?
自らを信じ、愛することから離れた神信仰も、真理の追求もあり得ないのです。



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3 コメント

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Unknown (示談屋)
2018-08-02 13:59:50
ふとキリスト教会のHPをネットで覗くと「当教会はエ●バの証人と言う団体と全く関わりが有りません エ●バの証人の教義は我々の持つキリスト教本来のものを冒涜したものです」と書いてあった
要はそのエ●バと言う会派は「キリスト=神」と言う崇拝を否定し、キリストは神の生んだ子であると説いているらしい
これの何処がおかしいのか皆目分からんのですが、取り合えずエ●バは運営が荒っぽいと言う噂は耳にした事が有ります

然しキリスト教会は他の会派を名指しで非難するよりは毅然として無視すりゃ良いんじゃないかと私は思いましたよ
紛い物の類似品に御注意下さいなんてえのは同業者つまり商売っ気丸出しじゃねえかとすら思いました




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Unknown (示談屋))
2018-08-02 14:53:09
私自身は若い頃からカルト脳、オカルト脳だと自認しておりますので、宗教に関して批判するのはおこがましい部分は有ると痛感しておりますが然し‥

例えばキリスト教会と言うものは、原始教会(=ユダヤ教改革派)に照らして考えれば、その場に「聖霊」を招霊させる能力者が存在し、ルーティンワークとして必ず「悪魔祓い」を行える力が要求されると定義しております
そのユダヤ教改革派時代の核となる基本能力を喪失した状態で神学のみが残り、聖書解釈の相違で他派を異端視すると言うのは荒唐無稽な話に思えます


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Unknown (シタテルヒコ)
2018-08-02 17:38:26
キリスト教に限らず、宗教は「正しい教え」に依拠したがるものです。それは何が正しい教えであるかが、分からないためだと思います。それだと権威というものが保たれない、信者が集まらないからでしょう。
それは集団的に「群がる」ことを前提にしているのでしょう。
私的には、何が正しい教えかは知らないけど、自分自身が本当に惹かれるというところから離れての宗教的帰依は"間違っている"と思います。
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