人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

光と段階

2021-02-04 12:06:18 | 意識、照明
立春も過ぎ、心なしか日差しが眩しく感じられるようになりました。都内では今日にも春一番が吹くという予報も出ています。
この日の光...これを受けることは私が"照明"と呼んでいる、あの思いを超えた、すべてを見透す光に与ることを象徴しているのです。
"じんじんして来た"、とか色々言ってますが、同じものに与っていて、感じ方が微妙に違うことを言い換えているのですが、これは正しく自分の外、上から日光が差し込み、影が一つも無く、私のすべてを写し出しているような感じのことを言っているのです。
勿論、この見えない日光は夜でも関係なく照らすもので、最近は寝る前とかに決まってそうなってしまって、もうじっとしてられなくて、布団の中でバタバタしてるくらいです。
これは逃げも隠れも出来ないで、ジタバタ"さあ、殺せi"と居直ることに似ていますが、ちっとも追い詰められてなど居ません。嬉しくて仕方がないのですi
裁きを受けることなどとはまるで違う...髪の毛の一本一本、すべてにお目がかかっているというほど、愛されていることは無いのです。
よーくこのことを味わってみて下さい。もし神を恐れている向きがおありでしたら、感じ方がガラッと変わって、寝て起きたら"目覚め"ているかもしれませんよi (これは当たり前のようで、そうでないことを言っているのですi)
悟りや精神的覚醒のことを英語で"エンライトメント"と言いますが、正しく光に与ることですね。
それは、光が意識の深いところまで貫き、照射することと言っても過言ではないでしょう。
ところが、昔から宗教、スピ界隈では、私は悟りの境地に達したとか、それにはいくつか段階があって、完全なる悟りにはそれらをクリアしなければならない、などと説かれてきたりしてきたのです。
神は、この超越的光を我々の段階に応じて小出ししているのでしょうか? 太陽の光は我々の状態によって左右されるものなのでしょうか?
"光を受けるのがイヤだからずっと部屋に閉じ籠っていよう"、とか"眩しいからカーテンを閉めよう"とかいうのは、どこまでもこっちの都合ではないでしょうか?
成る程、その光に与る、与ったことに対する受容、理解というものに一応の、一定の段階というものはあるでしょう。
この意味合いでの先の言い回しというのもアリなのでしょうが、それはどこまでも我々の段階のことなのです。(自分自身の段階とおぼしきものは、自分の歩みを俯瞰して見れる地点から感じられるものですが、光に与っている渦中においては、すべての段階を超えて、その時点での"全的な受容"としてしか感じられないものです)
そこには光に与るという大前提があるのです。それなくしては話になりません。
この意味で、エンライトメントを目指しての、どんな修行も努力も、ただ"ご苦労さんでした!"、ということになるでしょう。それら自体が光明をもたらす訳じゃないのです。
要するに、悟りの境地に達するような人間は誰も居ない、ということでしょう。すべてのものに光が既に達しているのですi
又、光に与れない人間も居ないということになります。それに与るにはカーテンを開ければいいだけなのです。
"最初に神の光があったi"、このことが蔑ろにされたところに、自分の力、為そう、達成しようとする意志、境地への固執などの自我的な思いがのさばり出すのでしょう。
"今日も光に与れる"ことへの感謝があるのみです。このことはこの日蝕の時にあって、より一層身に覚えられて来るではありませんか?
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