人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現実感覚

2021-09-24 12:08:24 | 求道、探究
宗教やスピの界隈には、現実離れした夢想、空想と結び付いた思念で溢れていて、一般にはそういうイメージが付きまとっているようです。
私は夢想家であることを否定しませんが、"現実感覚"というものをとても重視しています。
私が"現実に即して考えてみよう"、という場合、ほとんど現実にそう感じられるかどうか、ということを問題にしているのです。
この場合の現実というのは、客観的現実とか物理的現実に限ったことではありません。いやむしろ、"現実に即してみれば"、そういうものに現実感覚を感じない場合だってあるのです。
それがアリアリとした、疑いようのない現実に抵触したならば...そこに精神、霊なるものとの関わりを認めざるを得ません。
それが本来の意味でのスピリチュアリティというものでしょう。つまり、そこに霊的な現実感覚がもたらされているということに他ならないのです。
ベルジャーエフが言うように、「精神、霊なるもの(スピリチュアル)こそは現実(リアリティ)」なのですi
例えば、"私という個人は居ないのです"、という教説に触れて、現実にそう感じるでしょうか?...まあ、私ならそう感じることも無くはないですが、"全体しかないのです"、何て言われても、"そんなこた、空気にでもならん限り無いねえ..."と感じるようにです。
とにかくこの意味での現実感覚を欠いたところには、宙に浮いた観念ばかりがはびこるようになるのです。
現実に感じてないのに、"かくあれかし"、と信じようとすることが先走って、そこで理想を思い描いているのでしょうが、思いの世界で堂々巡りするばかりでしょう。
又、実体論と結び付く、所謂霊界の存在、前世や未来の予言といったことも直接、現実感覚とつながらなければ、ただの空想ごとに過ぎないのは言うまでもありません。
何かの教えに接して、あなたは本当に頷けるものを感じているのでしょうか? それとも、信じなければならない、という観念の元に従っているだけなのでしょうか?
観念ごとにしないで、自然に意識が動く方を感じてみて下さい。動かないのなら一旦離れた方がいいでしょう。
迷っているのなら離れてみる...注意すべき点...これは、否定するとか排除するということではない、ということです。そういうことも強い観念の所作と言ってもいいでしょうから...
要するに、こういうことは、取りも直さず思いを超えたものに与ることにつながるということなのです。
というか、現実感覚在らしめるものがあるから、そうなるまででして...
具体的に感じられるものを意識していれば、だんだんそういうもの(現臨)が芽生えてきます。
って、そう感じてたら、もう余計な説明は要らないですね?
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