人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

万人による、万人のための祈り②

2018-06-11 12:53:47 | 祈りと瞑想
神や聖者の名を称えたり、念じたりする修法というのは、念仏に限らず、古くから様々な宗教で伝えられてきました。
例えば、イスラム神秘主義のスーフィーでは、アッラーの名、東方正教会ではイエス、神道のある一派では天照大御神、中国の宗教結社道院では根元神、至聖先天老祖...その他それぞれ聖なる名を唱え続ける修法が伝えられているのです。
これは信仰対象とされているものが、直ちに自己と一体たらんとする道として表されていると見ることが出来るでしょう。
所謂悟り、救済、安心立命ということも、すべてその中に含まれている訳です。(この意味をジックリ味わってみて下さい。悟りや救いの道というのがあって、それと別に神仏と一体になる道というのがあると思いますか?)
これって言うのは...あらゆる精神的な道に内包されている、その基本にあるものであり、奥義なのでは無いでしょうか?
信仰や修行や儀式というものがある...それは安心というものに与りたいがためでしょう。だが、そこにそれをもたらすもの、その源というもの、帰着点というものが無ければ一体何になるでしょうか?
聖なる名と言えど、それは言葉に表されたコトバに過ぎないのかもしれない...だが、"名は体を表す"...そこに象徴された、名状し難い、"実見されるもの"に与る試みなのです。
そこに内実が失われれば、形骸化してしまうのは言うまでもありません。
しかし..."いや、一寸待てよ、聖なるものというのなら分かるけど、何かのキャラクターとかペットとかでもいい、とか言うのは何だi ケシカランi"と感じてる人もおられるかもしれません。
このブログの読者は、ピューリタンばかりでも無さそう?ですが、私は別に上記のような宗教的修法をして下さい、と言っている訳では無いのです。だから対象は、そういうものでなくても何でもいいでしょ?
これは、"最も愛してやまないもの"というのが、ミソなのです。
例えば自分が何かの宗教を奉じていて、その神を一生懸命崇拝しているとして、"そうしていることで本当に自分の魂が惹き付けられ、揺さぶられることがあるんですか?"と問われたとしたら..."皆信じてるから...信じなければ救われない、と教えられているから"ということならば、それはあなたの魂の声では無いということなのです。
思いを超えた恩寵は、嘘、偽りのない、マッスグな心、直心を通じて伝わるのです。
私は、野良ネコ"ペロちゃん"との触れあいを通して、その思いを超えたものに捉えられたことがあるのです。
ジワーッと、そこにすべてを包み込む慈愛のようなものが、ネコを媒体として呼び起こされたのを感じたのです。
これは、対象それ自体にそういう力があるというより、自他を一つにして顕現してくる現臨のハタラキと言っていいでしょう。
ただ、そこに生きたものが顕わになり、愛、平安をもたらすものがもたらされる...それが肝心なのです。
本当に聖なるものとは、あなたが思い描いているものとは限りません。リアルに臨んでくるものの前には聖も俗も善も悪も無いのです。
本当に最高のものとは、あなたの思いを超えているのです。
愛、平安...そこら中に溢れている、ありふれた言葉ですね。しかし、本当にそういうものに出くわしたら思いも寄らないものだ、ということが分かります。何よりもそれは自ずとそーなってしまうことなのだから...
"最も愛してやまないもの"は、もしかしたら探しても見つからないかもしれません。自他一つのものの一方ばかりに目が向けられていたら...
それも、これも今の時点で嘘でない、"最も...なもの"に意識を向け、敬うことから開かれるのでしょう。

一昨日の夜、例年より早い蒸し暑さの残る部屋で、"もう、信じる宗教はオシマイだなあ"とその末期症状の様に思いを巡らしているうち、"思われたものでない神的なものは、万人一人一人に開かれ、還元されなければならない"、といったところから昨日書いたようなことが閃いたのでした。すると、"ゴーッ"という地響きのような音と共に突風が吹き荒れたのでした。
そして、私は何かがハートの辺りから込み上げてきて、全心身を包み込むのを感じたのでした。

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