人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自己に目覚める

2017-11-03 11:38:11 | 求道、探究
"ある宗教の教えを信じ続けてみても、一向に心が充たされない、安らがない"
"あるメソッドに携わってみても、一向に自分の修行が進んだ気がしてこない"

宗教、スピ界隈ではよく耳にする話です。
世の中には一杯何かの先生だとか主義、信仰、メソッドなどがあるってことですね。人の数ほどあるみたいです。
そういう特定の何ものかに関わってみて、なんらの成果も無かったら、さっさと棄ててしまって別の何ものかを探すのでしょうか?
それとも、そうした道を歩むこと自体アホらしくなって、卒業しちゃうのでしょうか?
歩む道、いや人生そのものが精神的なものとなるか、そうでないかはともかく..."この道"には絶対に終わり、卒業ということなどあり得ませんi
それは"自己自身"という道ですi
これ以上、当たり前の、リアルなものとてなく、ここを離れて何処にも行きようのない道のことですi
あなたが依って来たるのも、帰りゆくべきところもそこしかないi
道というものがあって、あなたがそこを歩むんじゃない、あなたが道そのものなのですi
ここを外してあなたとは別なる、外なる神、宗教、主義、システム、メソッドに依りすがろうということが実にズレたことだとは思いませんか?
それらを"信じ、従ってみたが、意味もなく、どうともならなかった..."そういうことを自分自身に向けられるでしょうか?
自分の向こうにどうにかさせてくれる神や真理があるんじゃない...それは自己自身が開かれなければどうともならないのです。
そして、それは自分が望まなければ開かれないでしょう。
精神世界などという、それは便宜的に設えられたある文化上のカテゴリーにすぎません。
自己というものは精神とか肉体とか魂とか自我、真我などに分割出来るでしょうか?
一元論とか二次元などで語られるものでしょうか?
そういうもの一切は、あなたという他に変えられない、唯一無二の存在を抽象的世界の内に分解してしまうばかりです。
私のことは"我はありてあるもの"をして、語らしめるしかないだろう...死人をして語らしむるなかれi
この現実から遊離した高次元や低次元のこと、前世や未来のこと、エルランティだのレプティリアンだの ...我々の内奥は開かれることなく、薄っぺらな観念、命のないモザイクの世界に閉じ込められるばかりです。
OO教徒、OO主義者、OO派...自己を信じない人間は容易く自己を長いものに帰属させ、依存して行きます。
自己という内実は、中身の無いレッテルに隷属されるのです。
真の自己を上辺のことでなく、見い出そうとするならば、如何に自分がそうでないものに取り巻かれているか、ということに気付くことです。
そうでなければ、いつまでも入り口に立つことなく、周囲を漂うばかりでしょう。
覚醒というものは、自己自身に目覚めることに他ならないでしょう。
自己の実現は、生の実現ですi

死、闇、自己の否定...自己、他者は無きものに、生あるものは、虚無の内に分解、熔解せんとする空気が漂っている...
自己に向き合い、受け入れるか、背を向けるか...再生か、破滅か...
今日ほど我々に道が両極にハッキリ別れる様を見せられている時代は無いでしょう...。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« この世はうつし世 | トップ | 思いは化して行く »

コメントを投稿

求道、探究」カテゴリの最新記事