思いを超えた、神的なものにある時、そのものと一つになるように示されたりします。
しかし、私は私自らが、自らのみでそのようになる、ということはただの一度も示されたことなどありません。
当然のことでしょう。これはどこまでも"そのものにあって"なされ得ることなのです。
キリスト.イエスは、「私自らは何事もなし得ない...ただ父のみ心のままに行うのである」
仏陀は、「非我なるものは、我のものではない」
ソクラテスは、「私は自分が何も知らない、ということを知っている」と言いました。
古の聖者たちで、悟りなどの事態を自らに帰してしまう者など居たでしょうか?
自分で到達出来るような悟りなどというのは無いのです。
私はエゴマインドがすっかり無くなったとか、超能力みたいなのが開発されたとか自分で宣っているのは、まさしくそう思いたいからでしょう。
これは、上よりの力によって自分の力、思いというものが断絶される(これが"超えられる"ということで、それで無くなるということではありません。)というプロセスが蔑ろにされているためでしょう。
それは光に与ることに先立ち、闇のうちに置かれるようなプロセスです。否、この闇の道そのものが光の照射によるものなのでしょう。
そして、自らの限界を示されることがなければ、思いを超えた世界の消息を自らの思念で取り込もうとするのです。
主に取って代わろうとすること...神も思念の下に置かれるという訳です。
小池先生はこれを"霊的傲慢"と言って、特に戒めていました。
しかし、元々が自我性が強く、弱い私のこと、"私が..."という思いがもたげてきて、悟った人間のフリをしようとする誘惑に駆られたこともあるし、今後も危ういものです。
この誘惑に対する大きな歯止めとなっているものは、愛の鉄槌を受け、闇の道を示されたことが内奥に刻印されていることです。
人はスピ界隈に蔓延しているような、光に包まれた至福の世界のことは容易に想像出来るでしょう。
しかし、身体や思考の機能が後退して、闇に包まれた世界は想像出来ない...否想像したくもないのではないでしょうか? 特に自分を何ものかになろうとしている者にとっては...
だからこそ、それは我々が思念に囚われることのない、思いを超えた上よりの恩寵の消息を伝えるものと言えるのでしょう。
そこに本当の至福があるのかもしれません。
しかし、私は私自らが、自らのみでそのようになる、ということはただの一度も示されたことなどありません。
当然のことでしょう。これはどこまでも"そのものにあって"なされ得ることなのです。
キリスト.イエスは、「私自らは何事もなし得ない...ただ父のみ心のままに行うのである」
仏陀は、「非我なるものは、我のものではない」
ソクラテスは、「私は自分が何も知らない、ということを知っている」と言いました。
古の聖者たちで、悟りなどの事態を自らに帰してしまう者など居たでしょうか?
自分で到達出来るような悟りなどというのは無いのです。
私はエゴマインドがすっかり無くなったとか、超能力みたいなのが開発されたとか自分で宣っているのは、まさしくそう思いたいからでしょう。
これは、上よりの力によって自分の力、思いというものが断絶される(これが"超えられる"ということで、それで無くなるということではありません。)というプロセスが蔑ろにされているためでしょう。
それは光に与ることに先立ち、闇のうちに置かれるようなプロセスです。否、この闇の道そのものが光の照射によるものなのでしょう。
そして、自らの限界を示されることがなければ、思いを超えた世界の消息を自らの思念で取り込もうとするのです。
主に取って代わろうとすること...神も思念の下に置かれるという訳です。
小池先生はこれを"霊的傲慢"と言って、特に戒めていました。
しかし、元々が自我性が強く、弱い私のこと、"私が..."という思いがもたげてきて、悟った人間のフリをしようとする誘惑に駆られたこともあるし、今後も危ういものです。
この誘惑に対する大きな歯止めとなっているものは、愛の鉄槌を受け、闇の道を示されたことが内奥に刻印されていることです。
人はスピ界隈に蔓延しているような、光に包まれた至福の世界のことは容易に想像出来るでしょう。
しかし、身体や思考の機能が後退して、闇に包まれた世界は想像出来ない...否想像したくもないのではないでしょうか? 特に自分を何ものかになろうとしている者にとっては...
だからこそ、それは我々が思念に囚われることのない、思いを超えた上よりの恩寵の消息を伝えるものと言えるのでしょう。
そこに本当の至福があるのかもしれません。