人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

小島と大陸

2020-02-01 02:39:18 | 覚醒
私がこのブログを始めた頃、悟った人間気取りであろうとして、当然のことながら心底そういう感じがしてこないでいたのでした。
心底思えたことは、本当に悟った人間というのは、少しも"自分は悟ったのだ"、という痕跡を自身に残さないような人、他者については悟った人、悟っていない人という区別を立てない人、宮沢賢治のように、人類全体の悟り(があったとして)と自分の悟りとを切り離さないように感じている人だ、ということでした。
この意味で"悟った人間など居ない"、と言えるでしょう。
私は常に"自分が、ガ、我..."という思いから抜けきれず、"ああ、なんて自分はそういう人間とは程遠いんだi"、と感じながら、同時に他山の石のように感じていたのは、ネットなどで散見する、"私にはもう、エゴマインドは一切ありません。怒りとか悲しみ、恐れといった感情もありません。完全覚醒に達しているんですi"、などと宣う自称覚者方のお言葉や、悟り、覚醒などの周辺に群がる"悟ったらしい人たち"のとてもとても麗しい、"あなたのは今だしで、本当の悟りってーのは..."といった、悟りを自分に帰したがる、他に向けて講釈をしたがる議論、戯論の数々なのでした。
"私はああいう世界にゃ関わりたくない、いやもうドップリ浸かってしまっているのだろうか?"
どうしてこういう風に感じられるかというと、そこに本当の平安というものが感じられないからです。
どうして又そういう風に感じられるのか?、たまには平安に感じられることがあるからです。
それは"自分、自分が..."というものに思いが離れている?時...それが思いを超えたものー現臨と共にある、ということに他ならないのです。
自分を超えている、ということは"自分が"その自分を超える、ということとはまるっきり逆で、そういう自分は、その超えた当体に帰せられなければならないのです。
現臨...神、真我と言おうと、それは個我の大本、その依りどころ(みたいなもの)です。
その関係性についてよく例えられることで、これは非常に伝わってくるものがあるのですが、大海にポツンと浮かぶ小島が見えている自分だとして、それが海中で見えない大陸とつながっているようなものでしょう。
小島はそれのみが切り離されては、浮遊するか海中に没してしまい、その存在ごと失ってしまうように、限られた自己からの、自己追求に終始する悟りの道は、何処にも行き着かない虚無へと消え去ってしまうのではないでしょうか?
個のみから究極を目指すようなことは、大生命から分離するようなことではなかろうか?
といって、大陸の表れとしての小島というのも存在している訳で、"それは無い、全体しかない"、とも言えないでしょう。
目覚めというのは、この個であり、全てである自己の大本に目覚めることに他ならないのではないでしょうか?
それはどこまでも大本の意志あってのものですが、どうも年々地殻が鳴動しているのを覚えずにいられません。
誰かが言ってましたが、本当の悟りというものは、失われた大陸の急浮上みたいなものなのかも分かりません。

コメント
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