鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.142「18章 日本における自由思考空間」(7)~「宗教は狂信をもたらす」という抵抗~

2012年04月21日 | 「幸せ社会の編成原理」

             
       

「聖書は宗教の教典で、宗教は危険だ」という抵抗もあるでしょう。
その思いの中身は「宗教は人を狂信に駆り立て、狂った行動に導いていく」ということでしょう。

確かに宗教はそうした事件を数多く引き起こしてきました。
だがよくみると、そのケースはみな教理主義でもって行う通常方式の宗教(conventional religion)
によるものです。
      
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キリスト教に限らず教理主義では信徒にプロの僧侶が教典の要約(教理)を与えます。
信徒には「考えさせないで」先に画一的な答えを与える。
だから結果的に信徒はその鵜呑みだけをすることになります。

前述のようにこの方式では、霊的感動が不足します。その不足を様々なイベント、儀式演出で補填します。
演出の贅を尽くしてこれを行う。ところがこれらがある信徒には単純な教えの刷り込み効果を発揮します。
その結果、与えられた単純な思想を絶対の真理と早々と盲信する信徒ができあがる。

狂信はそういう、与えられた単純な教えに精神世界を閉じ込められたときに発生する心理事象です。
これに至った人間が有害危険な行動をする。
それをみて人々は「宗教は非理性的で頭の悪い者がするもの」と思うことになるわけです。
      
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聖句主義方式はそれとは真逆なものです。
そこでは信ずるところも個々人の自由な聖句解読にゆだねられます。
プロの解読だけをほしがる人がもしいたなら、そういう姿勢を戒め、自分流の解読を蓄積するように勧める。
こうして「考える宗教」に導くのです。

よくみるとこれは学問科学的な方法です。前述のスモールグループ活動事例をみてもそれは明らかでしょう。
聖句吟味活動はむしろ学問活動に重なる点が多いのです。
違いといえば科学より認識対象の領域が広くなっている(霊界にまで及ぶ)ことくらいです。

個々人はスモールグループで自由に聖句吟味をし、解読には様々な道筋が成り立つことや、
世界には無限の認識課題があることを体験しつづけます。
すると単純な思想を真理だと安易に盲信する境地には行きたくても行かれなくなります。

聖句吟味スモールグループ活動では狂信に陥る可能性は存在しない。
のみならずそれは狂信への防波堤にもなるのです。



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