鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.197『悪魔がユダに入った?』(13章)

2007年04月09日 | ヨハネ伝解読

 だんだん事態はクライマックスに近づいていきます。
イエスはユダが裏切ると宣言します。
 本日の聖句はこれです。

                                        
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「その弟子(ヨハネ自身)はそのままイエスの胸によりかかって、『主よ誰のことですか?』と尋ねた。
イエスは答えられた。『私が一切れのパンをソース(たれ)に浸して与える人物がそれです』。 
そして一切れのパンを浸して取りあげ、シモンの子、イスカリオテのユダにお与えになった。
ユダがパンを受け取るやいなや、悪魔が彼の内に入った」(13章25~7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


 イエスはユダにソース(たれ)に浸したパンを与えました(26節)。ユダはそれを受け取りました(27節)。
これで裏切りは決まりです。彼には、もう、悔い改めて別の道に切り替える可能性はなくなりました。

イエスは彼に「君がしようとしていることを、急ぎするがいい!」という言葉を投げかけました(27節)。
それでもユダには(読まれているな・・・)という思いはもう湧かなかったと思われます。
彼は夢の中にいるかのような精神状態で、外に出て行ったでしょう。

                    

<ユダの内に入ったのは?>

 さて、ここでヨハネは「ユダがパンを受け取るやいなや、悪魔が彼の内に入った」と記しています(27節)。
日本では通常これは文字通り、「ユダの内に悪魔という霊的存在が入った」と解されています。

 ところが、「そうではない、これは『悪魔の思いが入った』という意味だ」という解読もあります。
本日は、これについて考えます。

 後者の立場とる人は、結構論理的な根拠を持っています。すなわち
~~悪魔や「天の諸々の悪霊」と記されている霊は天使が変質したものである。
そして聖書のどこにも、天使が人の身体の内に入ったという記述はない。
だから、悪魔や悪霊も人の内にはいることはないだろう。

 天使が人の意識に影響を与えるときは、いつでも、外側からである。
だから悪魔や「天の諸々の悪霊」も外側から影響を与える存在と解すべきである。

 こういう背景からすると「悪魔が入った」という聖句は、「悪魔の思いが入った」と解すべきだ。
それをヨハネは「悪魔が入った」と象徴的に記しているのだろう~~と。


                    


<「汚れた霊」とは何か>

 脇道に入ります。
 本日は、少し長くなります。


 上記の解読を読むと、次のような疑問も起きてきます。すなわち 
~~「天使や悪魔が人の身体の内にはいることはない」というのなら、
聖書の中で「人の内に入っている『汚れた霊』」とはなにか。
イエスは人の内から「汚れた霊」を追い出しているではないか~~と。 



 これに対して、上記の立場を取る人は、こう答えるケースが多いです。
すなわち~~聖書で「汚れた霊」と記されている存在は、死者の霊の内の一部のものでは無かろうか。
人間の霊は、生前肉体の中に入っていたのだから、人の身体の内に入るのはありうることだ~~と。


  たしかに、そういう解読も、論理的には成り立ちます。


                    


<人霊は死後天国か地獄かに直行する?>

 ところが日本の多くの教職者はこれを聞くと、ヒステリーを起こします。
もう論理は度外視して感情的になる。
何故かというと、彼らは「人の霊は死んだら即座に天国か地獄かのいずれかに直行する」という強固な通念を持っているからです。
(そんなこと聖書に書いてないのにね)

 で、ヒステリックに「異端だ!」と非難しますが、浅はかなことです。
というのはこの人たちは、自らの手で聖書の解読を試みたという経験をほとんど持っておりません。
業界仲間(牧師)がこぞってそういっているから、オウム返しにそう叫んでいるにすぎない。
その姿勢が浅はかなのです。



                    




<異端を叫ぶには正統な解読を持つことが必須>

 ~~脇道のままです。

 異端って何でしょうか? これは「正統」の反対語です。
だから人を「異端!」これを叫ぶためには本当は、「これが正統」という解読を一つ持っていなければならない。
ところが非難者たちは確信のある解読など持ってないんですね。
だから、「あなたが異端という根拠は?」と問われると逃げ回ります。

鹿嶋はかつて、あるキリスト教関係の新聞社で連載を始めました。
そうしたら、ある牧師から新聞社にたれこみが入った。
「鹿嶋春平太というのは異端の牧師と交流がある!」と。

鹿嶋は新聞社に申し入れました。
「その牧師さんと、何処がどう異端なのか紙上論争しましょう。読者の前で堂々と」
そうしたら当の“タレコミ”牧師さんどうしたと思いますか?
「いや、私はその理論をよく知らないので・・・」と逃げる。

鹿嶋は「知らないでいい。それ以前のところで論争できる。そもそも異端とか正統とか
いうことについてどう考えるか。
そこで十分論争できる」と追求しました。
すると「それもあまり考えたことないので・・・」と逃げの一手。
結局、名も名乗れないで、逃げ通してしましました。

 ・・・浅はかの一語。

 これが日本の教職者の現状。
我が国でキリスト教界が一般ビジネスマンから信用を得るのはまだまだ先と予測せざるを得ません。


                    


<唯一の正統基準は「使徒信条」>


~~余談が続きます。

 聖書解釈が正統であるかどうかについて広く承認されてきた基準は、これまでのところ
「使徒信条(ニカイア信条の文章を整理したもの)」以外にありません。
そして、そこには「我は天地の創り主、全能の神なる創造主を信ず。われはそのひとり子イエスキリストを信ず・・・」とありますが、
「われは汚れた霊は死者の霊と信じるにあらず」などとは書かれておりません。



 「汚れた霊」をどう解読するかは、正統異端を分ける要素にはなっていないのです。
イエスを創主の子と解するか、人間の子と解するか、は基準になっていますけれど。


                    


<盲信と卑屈さとの混合>

 明確な根拠もなく他者を異端と叫んで非難するような信仰を、盲信といいます。
文字通りの盲信。
のみならず、この非難者たちには、村八分にされないためにひたすら多数派につこうという、卑屈さが観察されます。

 多数派についていれば、いじめられることもないだろう、活動を妨げられることもないだろう、
という卑屈さが見られるのです。

 
他方、前述の後者の立場の人々には、聖書を調べ、解読を進めていったという形跡が明確にあります。
天使が人の肉体に入ったという記述はあるかどうか、
イエスに追い出された霊はどう叫んでいるのか、
悪霊であるのになぜわざわざ「汚れた霊」という呼び名を当てているか、
---などの疑問を持ち、聖句を少しずつ詰めていった形跡があります。


 鹿嶋は、どちらの解釈が正しいかを言っているのではありません。
いやしくもキリスト教の教職者となったらなら、同業者の顔色をきょろきょろうかがって暮らすのを止めろ、
聖句をきちんと読んで自分で「考える人になれ」と言っているのです。


                    


 もうひとつ見逃してならないのは、後者の人々の見解は断定でなく、
「ではなかろうか」という可能性として意識されているということです。
聖書には直接「汚れた霊とはこれこれのことだ」と書いたところはありません。
他の様々な聖句から推論していったにしても、
それは「・・・ではなかろうか」「・・・の可能性が高い」ということにしか、人間にはいえない。
そういう自覚があります。


 他方、非難者は前述のように、そんな思惟過程など踏んでいないのです。
文字通り多数派についてヒステリーなだけ。
悲しいことに、日本の教職者のほとんどは、まだ、このレベルにあります。



                    

<原点に戻れば希望は出る>

 聖書勉強中の皆様は、こんな事書いたので失望されるかも知れませんね。
どうしましょう? 
いや、何もがっかりすることなど無いのです。
日本には、まだ、「福音」は入っていないと考えたらいいのです。

 ヘボンさんらの努力で聖書という書物が邦訳された。「書物」はとにかく入った。
これからそれに正しい姿勢で取り組んでいけばいいのだ、と。

 そのことに、気づきさえすれば、前途は暗くありません。
早く気付いて原点に立てばいいのです。


                    



コメント (10)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« Vol.196『ヨハネ以外の弟子は... | トップ | 過去ログが楽しいブログ »
最新の画像もっと見る

10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
久しぶりにコメントさせていただきます。 (浜通りの風)
2007-04-10 21:04:06
いつもRSSでキャッチして読ませていただいているものです。以前コメントしてから4年ほど経つでしょうか。私のブログにもコメントを残していただきありがとうございました。春平太さんの本との出会いは大学3年の時、『神とゴッドはどう違うか』を古本屋で手にしました。その後著書はほぼ読ませていただきました。最近私の妻も、これまで無関心だったのにむさぼるようにして読んでいます。彼女は牧師の娘として育ちましたが、これまでモヤモヤしていたものが次々組み合わさっていくのに感動しているようです。
 春平太さんのいう『聖書主義』私も聖書ファンとして大切にしたいと願っていますが、現実日本の教会ではなかなか受け入れられないようです。私自身危険視される事が多々ありました。私は、小グループの聖書の学び(相互の分かち合い)が大好きなのですが、『聖書主義』がないと盛り上がらないのです。教育のせいもあるのでしょうが、正しさ(多数ということ)や答えばかり求めて自ら考える事をしようとしないクリスチャンが多く、むしろそれが信仰的であるようにとらえられています。先日私の兄は、自分が聖書や教会に疑問をもっていることを『私は信仰がないんだ』と嘆いていました。それが、健常な信仰姿勢だと話しておきましたが、、、。
 いつも新しい目を開かせていただいて感謝です。実は私達、牧師になるため(私たちの団体は牧師とはいいませんが)の学校へ行くために来年東京へ行く予定です。いつかお会いできたら幸いと存じます。
 エントリーと全く関係のないコメントで失礼しました。
返信する
教理主義から入った国 (鹿嶋春平太)
2007-04-10 22:47:42
 近代日本にキリスト教を導入した最初の人は、ヘボン博士と協力者たちでした。ヘボンさんは日本語聖書を作ってくれた有り難い人ですが、教理主義教会から派遣された方でした。協力者もそうでした。続いてやってきた宣教師たちも、その系統の教会からの人が大半でした。
 それで日本では、キリスト教とはそういうものだという観念ができてしまいました。それが今日まで続いています。
 私は、もっと聖句主義を紹介せねば、と思っています。
返信する
浜通りの風さんへ (じゅんこ)
2007-04-11 00:09:11
新しいご夫婦の道に、主の導きと守りがあることをお祈り致します。きっと後に教会が出来た時には、自由な発言が許されるスモールグループがたくさんできることでしょうね。嬉しいです。

自ら考えようとしないことが信仰的だとする傾向は、日本独特のもののように思います。だから1%の枠から出られないのだとも、、、。私も以前、メッセージで分からないことがあり、牧師に質問しようとしたところ止められ、その後、長老が電車の中までついてきて、「牧師に直接話をするなんてとんでもない!」ときつく諭されました。その理由を質問しましたら、いつのまにか私はサタンになっていました。近くの教会に変わると決めた時の牧師の言葉は、「あなたとあなたの家族は救われない!」でした。その教会はその後大きくなり、牧師は有名な方になりました。(信徒がみな信仰深い?かたばかりで、全く疑問を持たないからだと思っています)

どうか、日本の教会に自由な風を入れてくださいますように、また、福音の風を吹き込んでくださいますようにとお願い致します。小さな者が、大きな主に願う祈りで応援させていただきます。

鹿嶋先生、私も全く関係ないコメントを割り込ませていただき、大変失礼致しました。
「日本には、まだ福音が入っていない」・・・納得です。
返信する
霊の話を避ける理由 (sabia)
2007-04-11 01:16:57
キリスト教関係者が、一般に霊にかかわる話を避ける理由のひとつは、日本には近代化とともにキリスト教がはいってきたという事情があると思われます。霊魂がその当たりをフワフワしているようなイメージを少しでも持たせる宗教であっては困るわけです。それでは、江戸時代以前の、エリートが相手にしなかった民間信仰に戻ってしまう。

伝える方も、カルヴァンの流れを汲んだ、いわば ”おどろおどろしさの少ない”教派が多かったでしょうし、受け入れる側としても、庶民よりも知識人層であったので、それを歓迎したことでしょう。

本来は、科学的であろうとするなら、対象は極端に言うと何でもよくて、研究する方法論だけが問題にされるべきなのですが、科学の世界でも、キリスト教の世界でも、霊界を語るだけで、いかがわしい扱いを受けてしまいがちですね。(実際、いかがわしい人も多いのですけれども・・・)

それにしても、じゅんこさんのエピソードは、なぜそういう体質になるのかを考える材料として非常に興味深いと思います。質問したり、疑問を持つことがいけないとする発想ですね。私としては、もっと語ってほしいぐらいですが。
返信する
そんな経験をされましたか、、 (浜通りの風)
2007-04-11 19:15:49
 じゅんこさん、そんな経験をされていましたか。さぞかしつらかったでしょうね。造り主をもっとよく知りたいという思いを否定されるのですから、、、。

 今から10年ほど前、二十歳頃の事ですが、私は田舎である日聖書の神、造り主に出会い期待をもって、東京(大学時代)の教会へ出掛けていきましたが、イメージとはほど遠いものでした。確かに青年達はいるのですが、その子達がいったい何のために教会に集っているのかが分からない。会話に聖書のせの字も出てこない。来るところを間違ってしまったかのかと思うほどでした。
 そんな時、大学の聖書研究会からスモールグループに触れることになるのですが、『やっぱりクリスチャンなら普通そういう風になるよねぇ』というような自由に聖書の見方を共有し会う交わりがそこにはありました。そのうち、自分の通っていた教会に違和感を覚えるものが何であるかを具体的に意識するようになり、青年達数人と聖書を読み分かち合う会をしたいということになりましたが、実現は困難を極めました。
 理由として、『私達(教会の責任者の側)の目の届かないところでこそこそ何をやっているのか分からないことを認められない。』とか『他にやらなくてはならないこと(私の団体は路傍伝道等に力を入れてきた歴史がある)が出来なくなってしまう』等の理由で毎回、大変精神を消耗する会議、議論を重ねました。
 結局やるなら教会全員参加でないと認めないと言うことになって、小学生から80歳まで総勢30人ほどの小グループとは似ても似つかない会をリードしなくてはならなくなりました。中には、全く関心を覚えない人も、目を輝かせて私を質問責めする子もいてそれはそれは大変な会でした。私も言い出した以上は退くことも出来ず、若かったこともあって半年ぐらい続けましたが、その間にも毎度私達と教会側のせめぎ合いがあり精も根も尽き果ててしまったのでした。
 こうして私はこの教会(横のつながりが強いので教団といった方がよいでしょう)を去ることになったのですが、その後にまた豊かな出会いが待っていました。そこで癒しを受けていきます。

 あれから10年が経とうとしていますが、ここに来て自分たちが生まれ育った団体に戻って献身したいという思いになりました。豊かに満たされると、乾きのあるところに出て行きたくなる。不思議ですね。

 またまた、自分の事を長々書いてしまいました。実は私もサタンと呼ばれたことありますよ。教会とか牧師の権威とかにひれ伏さないから扱いにくかったのでしょう。でも、日本の教会もそんなところばかりではないですよ。確かに、数から言えば私のようなタイプが当たり前に居れる教会は残念ながら相当少ないでしょうが、、、。

 これからも、何度も困難にぶつかり倒れるでしょうけれども捨て身で取り組むつもりです。きっとご入り用なら主が起き上がらせて下さるでしょう。
返信する
心に引っかかっていること (鹿嶋春平太)
2007-04-12 21:09:30
実は、心に引っかかっていることがあります。

2年ほど前でしょうか、米国でルター派の神学校にてスカラーシップをもらって勉強している神学生さんが、頻繁にコメントをくださいました。

 名前は忘れましたが(過去ログを見ればわかるでしょうが)、やはり、聖句主義に賛同し、「自分の神学校が教理ばかり教えて聖句に触れることがない」と苦情を言ってこられました。拝読していて、次のようなアドバイスを差し上げようかなあ、と思いつつ、ついつい書きそびれてしまった。それが心に引っかかっています。

 差し上げようとしていたアドバイスは・・・「教理の一つくらいは徹底的に学ぶ時期があってもいいでしょう。その一つとしてルター神学は相手にとって不足なしではないか。ましてや、そこからスカラーシップをもらって勉強していて、その学校のやり方に反論ばかり(聖句主義の立場から)していたのではまずくなるのではないか。ルター神学をしっかりやって、資格だけはしっかりもらっておきなさい。そして押しも押されもしない地位を確保してから、思う存分聖句主義をしたらいいのではないか・・」というようなものでした。

 わたしは、このままでは、この神学生さんは、自己分裂を起こすか、神学校を辞めるか、追い出されるかになるかもしれない、との懸念を感じておりました。しかしそれよりも、多分、鹿嶋チャーチを訪問しなくなるというあたりに収束して、苦しみ少なく神学校生活を送ることになられるだろう、思っておりました。

 そうこうしているうちに時がたち、投稿がぴたりと途絶えました。だから多分、苦しみの元になる鹿嶋には接触しない、という道をとられたのだろう、と推測していましたが、推測ですので、何処か心に引っかかってきました。もしかして、自己分裂を起こされたのではないか、神学校を中退されたのではないか・・・とか。

+++

 浜通りの風さんには、上記と同質のアドバイスを書いておきます。奥様と神学校に進まれるのなら、そこの教理をしっかり学んで資格をおとりなるのがいいと思います。

 将来聖句主義をされるにしても、教理の一つくらいは知っておいていいのではないでしょうか。益になるかもしれません。無事ご卒業され、どこかで教職を得られましたら、そのあとでお会いいたしましょう。
返信する
お気遣いありがとうございます。 (浜通りの風)
2007-04-13 06:15:23
 鹿嶋先生、心からのアドバイス本当にありがとうございます。確かに先生が指摘してくださったような不安はあります。しかし、私もそのたびにぶつかり倒れ、それでも性懲りもなくここまで来てしまいました。私が、これからそこに飛びこんでいったとき、周りの人の共感賛同を得られなければ、それは只の独りよがりになってしまいます。それならば、田舎でゆっくり生活していた方がよいので、そこは上からの知恵を頂いたり、周りの人に助けていただいたりして楽しんでやっていきたいと思います。
 お気遣い心にしみました。私達の学校は2年しかないのでどれほど教理を集中してやるのかは分かりませんが、心低くして学んでまいります。どうも、募金や訪問等の実践(実戦?)が多いと聞いていますが、、。
 では、そう言うことでその後、いつかお会いできる時を楽しみにしております。
返信する
はじめまして (VOXY)
2007-05-07 17:39:30
鹿嶋先生の『図解・聖書のことがよくわかる本』中経出版で勉強させていただきました。
先生のお名前でインターネットを検索しましたら
こちらのブログに出会えまして、感激しております。
こちらを通してもまた学ばせていただきたいと
思っております。一言ごあいさつまで。在主



返信する
聖句主義を説明する本 (鹿嶋春平太)
2010-03-08 08:42:39
久しぶりに、この記事とコメントを読み返しました。
日本には、聖句主義を知らずに、教理主義だけの中で
「異端!」と言われるのが怖くてびくびくしながら
キリスト教をやってる人が、牧師さんから信徒さんまで
たくさんいるんだなあ~と改めて痛感しました。
「聖句主義をきちんと説明する本」を早く書き上げることの
必要も改めて実感しました。
返信する
やっと聖句主義解説の本に (鹿嶋春平太)
2012-06-11 06:02:34

またまた久しぶりに、この記事とコメントに再会しました。
いま、ようやく「聖句主義」を説明する本にとりかかっています。
出来たと思ったら、まもなく改善点が浮上する、というのを
繰り返しています。
毎朝、布団の中で聖霊からの啓示を受けています。
それをもとに、書き直すという日々です。
いつまで続くことやら。
もう聖霊のリードに委ねるのみ、という心境に近づいています。
これまで鹿嶋は自分の知力、言語力に主に頼ってきました。
いま、それを打ちのめされています。
いい本を皆様に提供できる日を期待してやっています。
返信する

コメントを投稿

ヨハネ伝解読」カテゴリの最新記事