前回の「慣習的統治」の説明は今ひとつ漠然としていたと思います。
ここに追加します。
<自覚されない動機が「慣習的」>
ウェーバーが統治の類型を分類する基準は、人民の動機(心理)のありかたです。
第一の類型、「慣習的統治」では、
人々が「慣習的に」統治者の血統に正当性を認めていく、という点がポイントになっています。
そして、ウェーバーの場合、「慣習的」というのは、
当人が自らの「動機をもはや自覚しなくなっている状態」を意味しています。
我々はご飯を食べるときに、反射的に茶碗と箸を左右の手に持ちますよね。
敢えてそれについて自覚し考えることなくそうしている。
毎日繰り返しているうちに、そうなってしまっているのです。
彼は、こういう状態を「慣習的」といいます。
<合理的世襲もある>
すると、世襲が認められてなされる統治がすべて慣習的なわけではないことにもなります。
「あの一族の息子ならば、親のように我々を守ってくれるだろう」
という気持ちで世襲が容認されていたら、それは慣習的統治ではありません。
この場合は二代目も「社会を保全するという目的」をはたしてくれるだろう、
その目的に最も合理的な存在(手段)だろうと自覚されています。
こういう状態の動機は、ウェーバーは「目的合理的」と他の書物で言っています。
だから、こういうケースは目的合理的統治といっていいかもしれません。
けれども三代目、四代目と世襲による受け継ぎが進むにつれて、
人民がもはやそれを「無自覚に容認」するようになっていたらどうか。
それは慣習的統治だと彼は考えるのです。
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そして、その場合、人民がその統治者に漠然と正当性を感じる要素を敢えてあげるとすれば、
それは血統しかないでしょう。
その意味で、前回では血統を正当性の根拠とする、と説明しました。
ウェーバーはこの点だけから慣習的統治を説明しています。
だから、わかり辛いです。
今回、それを鹿嶋流に補填したわけです。
<世襲は慣習的になりやすい>
そしてウェーバーは、この世襲は時の流れの中で慣習的になっていく傾向を持つと認識しています。
鹿嶋はVol.2で、部族社会に統治者が生まれていく状況を示しまた。
そこで社会の成員が、武力と知力と命知らずの勇気をもった一族が自分たちの社会を守ってくれると、
その一族に統治権をゆだねていく状況を述べました。
だが、当初人民はは、そうすることが自分たちの社会を保全するのに最も有効だと自覚してそうします。
社会保全という目的のために最も合理的な手段だと自覚して統治を委任する。
これは目的合理的な統治です。二代目を容認するときもそうかもしれません。
だが、三代、四代と続くにつれて、人民はもうその効果をあまり考えないで、
従来どおりの世襲を容認していく。そうすると慣習的統治になります。
ウェーバーは、古代にはそうなってしまった統治が多いと認識しています。
(でも、日本人の選挙行動などでは、
まだまだ、この古代的意識の人が多いように見えたりするんだけど・・・余談)
そこで慣習的統治を第一の類型として提示しているわけです。
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