このところ、聖書の存在論の出発点に「神語」(かみご)を入れた状況でいろいろ考えてきました。
要約しますと~
創造神の懐には、御子と聖霊だけでなく、創造神の意志の現れである「神語」(ともいうべき言葉があり
父。御子・聖霊はそれを共有している。
それが無限の過去から続いてきている存在の初めの状況である。
~というものです。
今回もまたその全体像の視野から、考えてみます。
本日は、新約聖書に記録された有名な「姦淫の女}の事件を吟味してみます。
「ヨハネ伝」の8章です。
<エリートたち「姦淫の女」をイエスの前に立たせる>
~話はこうです。
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エルサレムの神殿の広場にいたイエスの所に、一人の女が引き立てられてきます。
連れてきたのは学者僧侶とパリサイ人たち、すなわち、ユダヤ社会のエリートたちでした。
彼らはその女を姦淫の現場で捕らえてきたのです。
そして、イエスに問いかけます~
「モーセの律法では、こういう女は『石打にして殺せ』と命じています。さあ、あなたの意見を聞かせてください」
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(申命記には、色んな種類の姦淫が記されていて、そのすべてが石打の刑を受けることにはなっていませんが、このケースでは石打の刑が妥当するのでしょうかね。「申命記」22:22以降を参照)
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これに対してイエスは何も答えないで、「指で地面になにかを書いて」いました。
だが、パリサイ人たちは問いかけを止めない。
そこでイエスは身を起こしてこう言いました。
「諸君の中で罪のないものが最初に石を投げなさい」~と。
そして、また、身をかがめて字面に書きものをしていました。
すると、エリートたちは、一人一人去って行った。
そしてイエスと女だけがそこに残りました。
イエスは彼女に問いかけました。
「婦人よ。あなたを罪に定める者はいなかったのですか?」
「だれもいません」と彼女は応えました。
するとイエスは言います。
「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは罪を犯さないようにね」
・・・・・・・
(「ヨハネ伝」8:3-11) 要約、以上。
感銘を受ける話ですね。
でもこれ、よくみると、考えるべきところもありますよ。
まず、姦淫に関する律法は「申命記」(5:18)にあります。
姦淫は罪、とある。
律法はゆるぎませんよ。
イエスも「私は律法を廃しに来たのではない。完全化しに来た」
~というくらいですからね。
するとイエスの「あなたを罪に定めない」などは、言えたことではないことになりませんか。
<イエスはまだ十字架死していない>
たしかに「イエスの十字架死で罪は許される」と受け入れたら、
人の罪は許されますよ。
だけど、よく考えてください。
この時点ではまだイエスは十字架死していませんよ。
いわゆる「イエスの功労」の効力はまだ実現していない。
なのに、イエスは「あなたを罪に定めない」といっている。
「そんな勝手なことしていいの、イエス様!」となりませんか?
~そうです。
そんなことしてたら、律法は揺らいでしまうではありませんか。
<神語を考慮に入れると>
ストレートに考えるとそうなりますよね。
だけど、ここで神語を考慮に入れたらなんとかなりませんかね。
天の神語にはモーセに示した律法もあるが、示されていないそれ以上のものもある、としたらどうにかならないか。
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たとえば~
「石を投げることの出来るのは、罪を全く犯してないという自覚が完全な人間に限る・・・」といったような文が、律法には示されていないが神語には含まれている、といったように・・・。
それには我々人間の理に合ったところもありますよ。
たとえば~
律法を法文のまま単純ストレートに受け取ったら、自分がこれまで律法に反する行為をしたと指摘されなかったら「気楽に石を投げる行為」をも人間は行うでしょう。
また「自分が罪を犯してきているかどうか」を敢えて内省しないで石打での殺しに参加してしまうということも。
でも、それではなんかおかしい、少なくとも不公平感は残りませんか?
<条件付きなら?>
では「姦淫の罪を犯した者に石を投げられる人は ”自分は罪を犯していない”者に限られるという条件があったらどうでしょうか?
もちろん、そういう施行細則のような法文は律法にはありませんよ。
だけど、天の「神語」には、そのあたりが詳細に記された部分があり、イエスはそれを知っていた。
だからイエスは「諸君の中で罪のないものが最初に石を投げなさい」~と確信ある強い口調で言ったのではないか。
エリートたちがたじろぐような口調で・・・。
そして、さらにさらに、イエスが地面に書いていたのは、その条文の神語だったかもしれない、という推察も出来る。
ここはそういう風に解読することも(神語の存在を考慮に入れれば)できるのです。
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するとこういう疑問も湧いてきます。
~百歩譲って、それが事実だと仮定しよう。
だけど、もしそうなら創造神はなぜモーセにその部分を伝えさせなかったのか~と。
そのあたりについては、次回に考えましょう。
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