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鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.308『領域間で対立する事例』(17章11節)

2010年10月20日 | ヨハネ伝解読

  前回、イエスの名の下のドメイン(「天」の領域)は悪魔のドメイン(「世」の領域)のなかに造られていくもので、
この両者は根本的に対立関係にある、と述べました。

今回は、その具体例を見ておこうと思います。
各々のドメインに属する人の人生観の対比をみましょう。


                    

<人生観特質の対比>

「天」のドメインに属する人の人生観の特徴は、
「永遠のいのち(霊いのち)を確保することを第一義とし、
この世での百年ほどの肉体の幸福を二番目に大事なこととする」姿勢に見ることが出来ます。

それは
「創造主の王国(天国)とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすればこれらのもの(この世の人生に必要なもの)は添えて与えられるよ」(マタイによる福音書、6章33節)
というイエスの言葉に従った姿勢です。

他方、「世」のドメインに属する人の人生観は、この世の仕合わせだけに焦点を合わせるスタンスをもっています。
人生の最大関心事は、「この世の人生を出来るだけ楽しく生きること」だ。
永続する霊とか永遠とかいった概念はもちません。
霊といっても葬式などの時に死者の霊魂をちらっと思う程度です。


                    

これに関連してさらに、対照的な事柄が出てきます。

「世」の領域にも宗教はあります。神様という「見えない力ある方」への信仰心はあるのです。
だが、その信仰活動は「この世」の仕合わせだけを目指したものになっている。

たとえば、宗教施設で売られている「おみくじ」の中身を見てご覧なさい。
木の枝などに雪の花のように無数に縛り付けられているから、開いてみたらいい。
そこに書いてあることは「この世」の人生がうまくいくかどうかに関連することばかりです。
神様は、自分(人間)の目的がなるように働いてくれる存在として意識されています。

対して、「天」のドメインに属する人にとっては創造神は、人間がその御旨に従う対象です。
「人間は、霊に永遠のいのちを得ることを第一にすべし」というのは創造神の望みで、
人はそれに沿った行き方をしようとするのです。


+++

ところで、こういう文章から、「世」の領域に属する人の人生観をダメだと鹿嶋がいっていると誤解しないで下さい。
どちらがいいかについてはいっていない。

評価は観点によって色々出来るのです。
たとえば、「わたしは霊の永遠のいのちの確保を一番大事にする姿勢で生きている」といったら
「世」のドメインに属する人々は「バッカジャナカロカ、この忙しい世の中で」と思うでしょう。
それも一つの評価です。鹿嶋はただ、事実として対比ているだけです。


                    

<自尊心過敏>

対比を続けます。

「天」のドメインに属する人は、この世での事柄に関して
軽いタッチで応じる傾向を持ちます。基本的にそういう姿勢で応じるのです。
この世のことも大事だからいろいろ考え行いますが、「一番大事なこと」ではないんだからそうなります。

人にはこの世での自尊心がありますが、その処理も異なってきます。
「天」の領域に属する人には、自尊心が自分を縛るほどのものにはならない。
だから恥を極度に恐れることがない。知らないことは素直に尋ね、受け入れるべきことは受け入れます。
その結果、このドメインの人は常時成長します。

ところが「世」のドメインに属する人は、そうはいかない。
この「世」のことが全てですから、「世」のことに余裕を持って当たることが難しくなります。
だから基本的にテンションも大きくなる。結果、ストレスの強い人生になるんですね。

そうしたなかで自尊心も過敏なものになりやすい。ベネディクト夫人が『菊と刀』で書いたように恥の意識も過敏になる。
その結果、知らないことを質問するのも躊躇する。また素直に他者の智恵を受け入れにくくなります。
結局自然に、持って生まれた素質だけでものごとに対処することになる。そこには持続的な成長はありません。

鹿嶋は、いろんな分野で、いい素質に恵まれながらそれを洗練させられなくて、
幼稚なままで年取っていく人を沢山見てきました。ホントに惜しいと思いました。

もちろん「世」のドメインに属していても、自尊心の処理のようなことを上手に出来る人もいます。
育った家庭環境がいいとか、友人関係がいいとかで「教養として」の謙虚さを身につけていて
それでもって知恵を働かせて処理する。
ですから、みんながみんなそうだとはいいませんが、処理できない人も沢山出ます。

ところが「天」のドメインに属する人は、全員処理できてしまいます。その意味で対照的です。

                    


<日米キリスト教会の雰囲気差異>

蛇足です。
話は少しややこしくなりますが、同じキリスト教会でもその雰囲気に対照的といっていいほどの
差異が生じることがあるようです。

米国に留学や仕事で一定期間暮らした日本人で、クリスチャンになる人が結構沢山います。
で、帰国すると日本の教会を探して通うのですが、しばらくすると行かなくなる人がこれまた結構出るんですね。
そしてクリスチャンも止めてしまう。推定では8割がそうなるそうです。

聞いてみたところでは、日本の教会は重苦しくてつまらないそうです。
そしてつまらないが辛いになり、苦しくなって行かれなくなってしまうという。

なぜでしょう。アメリカであんなに楽しかったのに。
どうして雰囲気が対照的なほどに違うんでしょう。

ひとつにはやはり、日本の教会には
「霊の永遠のいのち確保が第一で、この世の幸福は二番目に大事」という意識が薄いからではないでしょうか。
代わりに道徳に沿った生活姿勢を重視する。

けれども、道徳的なこと、律法をまもることは、霊の永遠のいのちの確保には少ししか関連していないのです。
ということは、霊のいのち確保に焦点が合っていないことでもある。

すると、この世のことに軽いタッチで対処するという姿勢がとれなくなるんですよね。
牧師さんや教会員がそうですと、教会にはテンションとストレスが満ちてしまう。
礼拝も重苦しくてお通夜のようになってしまう。

アメリカの教会でクリスチャンになった人には、それが耐えられないようです。
そんなわけで、帰国すると8割が棄教してしまうことが、アメリカ在住の日系クリスチャンの間で、
よく問題になっています。


教会は論理的にはイエスの名のもとの領域です。
同じ教会ドメインなのにそんなに違ってしまってはおかしいんですけどね。



                    




                    

 

コメント (9)
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