「ヨハネ伝解読」依然17章11章です。
前回イエスという名は、父親ヨセフではなく、創造主が与えたものだったと確認しました。
本日は「あなたの御名」です。
もう一度聖句を掲げましょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。
聖なる父よ、あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保って下さい。
それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」(17章11節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「あなたがわたしに下さっているあなたの御名」でもってイエスは、
「創造主は御子にイエスという名を与えただけではない。その名は『あなたの名』です」
と言っています。
これはどういうことか。
振り出しから考えますと、「あなたの」というのは所有格代名詞ですよね。
だから、イエスという名は「創造主が所有していた」ということになる。
<「手持ち」の名か、自分の名か>
これってどういうこと?
筋としては二つ考えられます。
一つはイエスという名を創造主が「手持ちとして」もっていた、という意味。
これを御子に与えたという筋道です。
通常の感覚では、そうでしょうね。だが、もう一つありうる。
それは父なる創造主が、この名を「自分につけた名として」所有していた、という筋道です。
「えっ?!」ですね。
それはないんじゃないの? 創造主にはエホバという名があるでしょ?
という声が聞こえそうですね。
だけど、旧約聖書に出てくるその名は、じつは創造主の名ではないことを、
このチャーチのカテゴリー「エホバの奥義」で鹿嶋は述べています。ご覧下さい。
とにかく、そういうことだから、父なる創造主の名もイエスであって、
創主はそういう我が名を御子にも与えた、という筋も成り立ちます。

<父と子と聖霊の名>
どちらか一つを確定する手がかりを与える聖句はないでしょうかね。
『マタイ伝』を開いて下さい。28章19節にこんな言葉があります。
「それゆえ諸君は出て行って、全ての国の人々を弟子にしなさい。
そして父と子と聖霊の名によってバプテスマ(洗礼)をさずけ、
わたしが諸君に銘じておいた全てのことを守るように教えなさい」

これはイエスが弟子に与えた命令の言葉です。
この「父と子と聖霊の名」って何でしょうか。
今度は『使徒行伝』を開きましょう。
2章38節にこんな聖句があります。
「ペテロは彼ら(人々)に答えた『悔い改めなさい。
そして、それぞれ罪を赦していただくために、
イエス・キリストの名によってバプテスマ(洗礼)を受けなさい』」

これはイエスの弟子ペテロの言葉です。
なんと彼はイエスに「父と子と聖霊の名によって」バプテスマを授けよ、
と命じられていたのに、「イエスの名によって」受けろと人々に言っています。
だけど、ペテロがイエスの命令に従わないはずはありません。
むしろここからは「父と子と聖霊の名」イコール(=)「イエスの名」という等式が推論できるでしょう。

「え?!」ふたたび「エッ?!」ですね。
「お戯れを・・・」という人もいるんじゃないかな。
でも、弟子たちが父と子と聖霊について、
各々別の名を言ってバプテスマを施しているという記述は聖書にはありません。
もちろん、右の二つの時点の間に、何があったかを示す聖句もありません。
その間の過程は謎だ。
だから、等式は明証されてはいないのです。

<創造主の名は奥義?>
けれども事態を裏から考えてみましょう。
明証されていないが故に、
我々はこの等式がなりたつ「可能性」そのものにすら通常気がつきません。
この等式の可能性は奥の方に隠れている。
でも、実は奥義ってそういうものではないでしょうか?
聖書には、創造主の名は実はイエスであって、その名を御子に与えたのだ、
という思想が奥義として埋め込まれていたのではないでしょうか?
次回は「聖霊の名」について吟味しましょう。

前回イエスという名は、父親ヨセフではなく、創造主が与えたものだったと確認しました。
本日は「あなたの御名」です。
もう一度聖句を掲げましょうか。

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=聖句=
「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。
聖なる父よ、あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保って下さい。
それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」(17章11節)
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「あなたがわたしに下さっているあなたの御名」でもってイエスは、
「創造主は御子にイエスという名を与えただけではない。その名は『あなたの名』です」
と言っています。
これはどういうことか。
振り出しから考えますと、「あなたの」というのは所有格代名詞ですよね。
だから、イエスという名は「創造主が所有していた」ということになる。
<「手持ち」の名か、自分の名か>
これってどういうこと?
筋としては二つ考えられます。
一つはイエスという名を創造主が「手持ちとして」もっていた、という意味。
これを御子に与えたという筋道です。
通常の感覚では、そうでしょうね。だが、もう一つありうる。
それは父なる創造主が、この名を「自分につけた名として」所有していた、という筋道です。
「えっ?!」ですね。
それはないんじゃないの? 創造主にはエホバという名があるでしょ?
という声が聞こえそうですね。
だけど、旧約聖書に出てくるその名は、じつは創造主の名ではないことを、
このチャーチのカテゴリー「エホバの奥義」で鹿嶋は述べています。ご覧下さい。
とにかく、そういうことだから、父なる創造主の名もイエスであって、
創主はそういう我が名を御子にも与えた、という筋も成り立ちます。

<父と子と聖霊の名>
どちらか一つを確定する手がかりを与える聖句はないでしょうかね。
『マタイ伝』を開いて下さい。28章19節にこんな言葉があります。

そして父と子と聖霊の名によってバプテスマ(洗礼)をさずけ、
わたしが諸君に銘じておいた全てのことを守るように教えなさい」


これはイエスが弟子に与えた命令の言葉です。
この「父と子と聖霊の名」って何でしょうか。
今度は『使徒行伝』を開きましょう。
2章38節にこんな聖句があります。

そして、それぞれ罪を赦していただくために、
イエス・キリストの名によってバプテスマ(洗礼)を受けなさい』」


これはイエスの弟子ペテロの言葉です。
なんと彼はイエスに「父と子と聖霊の名によって」バプテスマを授けよ、
と命じられていたのに、「イエスの名によって」受けろと人々に言っています。
だけど、ペテロがイエスの命令に従わないはずはありません。
むしろここからは「父と子と聖霊の名」イコール(=)「イエスの名」という等式が推論できるでしょう。

「え?!」ふたたび「エッ?!」ですね。
「お戯れを・・・」という人もいるんじゃないかな。
でも、弟子たちが父と子と聖霊について、
各々別の名を言ってバプテスマを施しているという記述は聖書にはありません。
もちろん、右の二つの時点の間に、何があったかを示す聖句もありません。
その間の過程は謎だ。
だから、等式は明証されてはいないのです。

<創造主の名は奥義?>
けれども事態を裏から考えてみましょう。
明証されていないが故に、
我々はこの等式がなりたつ「可能性」そのものにすら通常気がつきません。
この等式の可能性は奥の方に隠れている。
でも、実は奥義ってそういうものではないでしょうか?
聖書には、創造主の名は実はイエスであって、その名を御子に与えたのだ、
という思想が奥義として埋め込まれていたのではないでしょうか?
次回は「聖霊の名」について吟味しましょう。
