福谷章子のまちづくり

さまざまな役割を持ちながら暮らす中で、日々出会い触れ合う人々、街、文化、自然、出来事についてつづります。

形が消えても残すべきことについて思う

2017年08月14日 | 家庭生活&家族事情


Uターン予報によると、14日の夕方が中央道はピークとのことでした。
そこで何とか小仏トンネルをお昼までに通過しようと、今朝は早めに山荘を発ちました。
諏訪湖で少し休憩。

しばらく留守にする家の始末はとても大変で、米寿の母は、片付けが間に合うか心配で眠れなかったそうです。
寝具を片付け、使ったシーツをはずして持ち帰り、ダイニングの椅子はテーブルに上げ、ソファにカバーをかける。
調理器具には袋を被せて、調味料は持ち帰ります。
 

1カ月に一度くらいの割合で来ることが出来れば、そのまま置いておける物も多いのですが、次に来る時期のめどが立たないので持ち帰ります。

秋には水を抜いておかないと冬場に水道が凍結してしまうので、そんな先の心配もしながらの片付けです。
紅葉の頃にはまた来たいと願いながら、戸締りをしました。

お盆休みを終えて千葉に戻ると、母からお礼を言われました。
「家の事だけが気がかりだったけれど、私が元気なうちに処分することが出来てホッとした、ありがとう」

複雑な気持ちです。
昨年の今頃の、孫たちを連れて実家に滞在し母とひ孫たちとテンヤワンヤでお盆を過ごしている写真を目にしました。
 

処分してしまった父の仏壇が映っていて、心が痛みました。
もしかしたら、私は次世代の子どもたちに残すべき「かけがえのない機会」を切り捨ててしまったのではないだろうか?

物としての実家は、今後誰も住まない空き家として迷惑な建物になったでしょう。
しかし、母たちが生きた証として、またその経験や文化を伝え何物にも代えがたい場としての実家も、一瞬のうちに失くしてしまったのです。

たった1軒の家の出来ごとですが、日本社会が変わってきたその一部であると感じます。

物はいずれ姿を変え消えていきますが、その物を通して伝わる大切な事に無頓着な私であり社会であることに警鐘を鳴らしていかなければと思います。
子どもたちの未来のためにも。


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