I see the sea

2011-03-18 18:47:46 | Weblog
卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。(校長メッセージ)

2011.03.17
 学校からのお知らせ
卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。

 諸君らの研鑽の結果が、卒業の時を迎えた。その努力に、本校教職員を代表して心より祝意を述べる。 また、今日までの諸君らを支えてくれた多くの人々に、生徒諸君とともに感謝を申し上げる。
 とりわけ、強く、大きく、本校の教育を支えてくれた保護者の皆さんに、祝意を申し上げるとともに、心からの御礼を申し上げたい。
 未来に向かう晴れやかなこの時に、諸君に向かって小さなメッセージを残しておきたい。
 このメッセージに、2週間前、「時に海を見よ」題し、配布予定の学校便りにも掲載した。その時私の脳裏に浮かんだ海は、真っ青な大海原であった。しかし、今、私の目に浮かぶのは、津波になって荒れ狂い、濁流と化し、数多の人命を奪い、憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である。これから述べることは、あまりに甘く現実と離れた浪漫的まやかしに思えるかもしれない。私は躊躇した。しかし、私は今繰り広げられる悲惨な現実を前にして、どうしても以下のことを述べておきたいと思う。私はこのささやかなメッセージを続けることにした。
 諸君らのほとんどは、大学に進学する。大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。大学に行くことは、他の道を行くことといかなる相違があるのか。大学での青春とは、如何なることなのか。
 大学に行くことは学ぶためであるという。そうか。学ぶことは一生のことである。いかなる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。一生涯辞書を引き続けろ。新たなる知識を常に学べ。知ることに終わりはなく、知識に不動なるものはない。
 大学だけが学ぶところではない。日本では、大学進学率は極めて高い水準にあるかもしれない。しかし、地球全体の視野で考えるならば、大学に行くものはまだ少数である。大学は、学ぶために行くと広言することの背後には、学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあるといってもいい。
 多くの友人を得るために、大学に行くと云う者がいる。そうか。友人を得るためなら、このまま社会人になることのほうが近道かもしれない。どの社会にあろうとも、よき友人はできる。大学で得る友人が、すぐれたものであるなどといった保証はどこにもない。そんな思い上がりは捨てるべきだ。
 楽しむために大学に行くという者がいる。エンジョイするために大学に行くと高言する者がいる。これほど鼻持ちならない言葉もない。ふざけるな。今この現実の前に真摯であれ。
 君らを待つ大学での時間とは、いかなる時間なのか。
 学ぶことでも、友人を得ることでも、楽しむためでもないとしたら、何のために大学に行くのか。
 誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。
 大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。
 言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。
 中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。
 大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。
 大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。
 池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。
 「今日ひとりで海を見てきたよ。」
 そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。
 悲惨な現実を前にしても云おう。波の音は、さざ波のような調べでないかもしれない。荒れ狂う鉛色の波の音かもしれない。
 時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。
 いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。
 いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。
 海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。
 真っ正直に生きよ。くそまじめな男になれ。一途な男になれ。貧しさを恐れるな。男たちよ。船出の時が来たのだ。思い出に沈殿するな。未来に向かえ。別れのカウントダウンが始まった。忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな。
 鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。愛される存在から愛する存在に変われ。愛に受け身はない。
 教職員一同とともに、諸君等のために真理への船出に高らかに銅鑼を鳴らそう。
 「真理はあなたたちを自由にする」(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース)・ヨハネによる福音書8:32


 一言付言する。
 歴史上かってない惨状が今も日本列島の多くの地域に存在する。あまりに痛ましい状況である。祝意を避けるべきではないかという意見もあろう。だが私は、今この時だからこそ、諸君を未来に送り出したいとも思う。惨状を目の当たりにして、私は思う。自然とは何か。自然との共存とは何か。文明の進歩とは何か。原子力発電所の事故には、科学の進歩とは、何かを痛烈に思う。原子力発電所の危険が叫ばれたとき、私がいかなる行動をしたか、悔恨の思いも浮かぶ。救援隊も続々被災地に行っている。いち早く、中国・韓国の隣人がやってきた。アメリカ軍は三陸沖に空母を派遣し、ヘリポートの基地を提供し、ロシアは天然ガスの供給を提示した。窮状を抱えたニュージーランドからも支援が来た。世界の各国から多くの救援が来ている。地球人とはなにか。地球上に共に生きるということは何か。そのことを考える。
 泥の海から、救い出された赤子を抱き、立ち尽くす母の姿があった。行方不明の母を呼び、泣き叫ぶ少女の姿がテレビに映る。家族のために生きようとしたと語る父の姿もテレビにあった。今この時こそ親子の絆とは何か。命とは何かを直視して問うべきなのだ。
 今ここで高校を卒業できることの重みを深く共に考えよう。そして、被災地にあって、命そのものに対峙して、生きることに懸命の力を振り絞る友人たちのために、声を上げよう。共に共にいまここに私たちがいることを。
 被災された多くの方々に心からの哀悼の意を表するととともに、この悲しみを胸に我々は新たなる旅立ちを誓っていきたい。
 巣立ちゆく立教の若き健児よ。日本復興の先兵となれ。
 本校校舎玄関前に、震災にあった人々へのための義捐金の箱を設けた。(3月31日10時からに予定されているチャペルでの卒業礼拝でも献金をお願いする)
 被災者の人々への援助をお願いしたい。もとより、ささやかな一助足らんとするものであるが、悲しみを希望に変える今日という日を忘れぬためである。卒業生一同として、被災地に送らせていただきたい。
 梅花春雨に涙す2011年弥生15日。


立教新座中学・高等学校

校長 渡辺憲司

遥かなる未来へ

2011-03-18 07:51:27 | Weblog
たとえ遥かに先でも

この国に未来があることを信じて。

絶対にこの国は大丈夫。
この国を心から愛する人々が1億3000万人もいるから。

今こそ、日本人であることの誇りを胸に。

昨日も、この国の未来を守るために、自衛隊と警察が、文字通り命懸けで消火活動を行っていました。
成果は正直わかりませんし、上空投下は誰の目にも散布にしか映りませんでした。
でも、これ以上危険な散布がどこにあるでしょう。
誰が彼らを非難出来るでしょう。
ですから、
ネット上で焼け石に水とか、特攻隊だの揶揄する輩を許せません。
況や、その最中にお笑い番組をたれ流していた民放各局をやです。



追伸
仕事で関係のある方々から、お見舞のメールを何通も頂き、ひとつひとつ、丁寧に、そして大真面目にこう返信しました。


ありがとう。
でも、大丈夫。
我々は希望を捨てない。


2011-03-14 08:10:05 | Weblog
計画停電がよくわからないのと、放射能の見えない恐怖と、余震への警戒で、まだまだ安心できませんが、震災地の方々が乗り越えなければならない苦しみや哀しみと比べれは屁みたいなもんです。

スーパーへ行っても、パンの棚はもぬけのからでした。
これらのバンが震災地へ優先的に出荷されていることを切に願います。

贅沢な時間

2011-03-10 15:03:01 | Weblog
人には誰にも「等しく」時間が訪れるが、誰に対しても「優しく」訪れるわけでは決してない。

往々にして、人は時間を管理しているような気になっているが、実の所は時間に人が翻弄されているだけ ........ のように思えてならない。

よく耳にする
「死ぬ程忙しい」
とか
「 死ぬ程暇だぁ」
といった台詞が出る内はまだマシで

世の中、忙殺なんていうレベルを遥かに飛び越えて、時間の呪縛から逃れる術もなく過労死する人がゴロゴロいるし、一方で、まるでそこだけ時が止まったかのような虚無な空間の中で、日がな一日誰とも口をきくこともなく、やがてひっそりと孤独死していくような人も現に大勢いる。

正真正銘、人は時間によって生かされ、時間によって殺される。
時間は、時に贅沢なものであり、また、かくも残酷なものなのだ。

話は変わって、4月になれば、少し自分の時間がとれそうなので、一人旅を計画している。
出張を除けば、一人で長時間、長距離を移動するのは何十年ぶりだろう。

思うに、何かを楽しみにしながら、密かに計画を立てている時は実に楽しい。
おそらくは、計画を実現している最中よりも充実しているかもしれない。

何故なら、密かな楽しみが、実際に始まっていない内は、その楽しみが終わってしまうこともまたないのだから。
そして、それは、僅かに残された自分が時間をコントロール出来る「贅沢な一時」でもある。

Switch

2011-03-09 18:15:22 | Weblog
中国で酒呑まされたり、九段下のラーメンに舌鼓を打ったりして現をぬかしていると、平気で体重管理が疎かになる。
どうも最近76キロ台半ばゾーンを安住の地としている自分の存在に気付く。

スイッチを入れ直す。

早速、昼休みにジムにて走る。

スプリント力不足を補う目的で、トレッドミルを時速10キロでどれだけ走れるか試してみる。

と言っても、昼の限られた時間では長くても20分が限界だろう....。
着替えの時間もあるし。

おまけに並以下の自らの走力をよおぉーく認識しているから、今日は手始めに12分トライアルということで......。(汗)



ふん。
とりあえず、こなした。
はぁはぁ、ぜぇぜぇ だけれど....。


やれば出来るが、20分は苦しそうだな?
次は15分位にしておいてやろうかな?

弱気だな。

体重は、76.15kg

明日までには、75キロ台には戻したる。

九段下 斑鳩

2011-03-08 17:35:33 | Weblog
とあるセミナーを聴講するため九段下に参上。

講演が始まる前に、折角ここまで足を延ばしたのだから、噂のラーメン店「斑鳩」に立ち寄ることを思い立つ。


幸いにも、昼少し前に現地に到着したため、順番待ちの列にも、先にまだ2人が並んでいただけで、労せずして入店できた。

しかし、オーダー済の煮たまごラーメンを待ちながら、ふと店頭に目をやると、忽ち長蛇の列が!

この列を外で目の当たりにしたら、とうに諦めていたことだろう。
滑り込みセーフだった訳だ。

程なくして、煮たまごラーメンが運ばれてきたので、早速豚骨魚介スープから初実食。

感想は、使い古された表現ながら、新食感の一言。

果たして、新食感の理由は、そのクリーミーサワーなスープにあった。
見た目と違い、味がしつこくないため、中太麺でもツルツル否チュルチュル食が進む。

店内も、接客も、味も全てが上品な仕上り。
もしかしたら、熱心にラーメン屋巡りをする訳でもなく、然程ラーメンに興味やこだわりがないからこそ、この味を自然に受け入れられたのかもしれない。

こってり系ラーメンに目がない人は、きっと肩すかしを喰らうだろうが、ラーメンテイストのスープパスタと捉えれば、上出来、上出来。

それでも、My Bestラーメンの札幌五丈原には遠く及ばないが、そもそもジャンルが違うと思えばいい。

ところで、ジャンルが違うと云えば、肝心の講演のお味の方だが、残念ながら口に合うものではなかった。