自分は嘘つきだ
もしこの言葉が「真実」であれば、真実を言ってしまった自分は「嘘つきである」という発言内容と矛盾する。
この言葉が「嘘」だとすれば、自分は「正直者である」事になり、「正直者なのに、嘘を言った」ので、結局は自分の言葉が、真実でも、嘘でも、おかしなことになる。
一方、「自分は正直者だ」と言った場合は
それが「真実」だとすれば、言葉通り正直者が「自分は正直者だ」と真実を言ったのだから、問題なく成立する。
ただ逆に、この言葉が「嘘」だった場合でも、嘘つきが「自分は正直者だ」と嘘を言ったことになるので、これも問題なく成り立ってしまう。
その結果、「自分は正直者だ」という命題は、真でも偽でも、どちらでも成り立ってしまうことになり、結局、真とも偽とも決められなくなる。
要するに、『自分は正直者(嘘つき)なんだ』と、自分のことを言及したところで、その言葉の正しさを絶対に証明できないことになる。
よって、自分の言葉の真偽すら証明できない者が、いくら「自分探し」をしても、それはやはり永遠に答えを見つけることはできないだろう。
と、結びはやや強引な気もしたが、僕が最近拾い読みしているブログに書かれてあった小ネタが面白かったのでご紹介した。
よく、「自分探し」に限らず、巷には、人生に悩んだ時の指南書らしきもので溢れかえっているが、数学的にみれば、それは、証明できないものに時間を無駄に費やすことでしかない.....
という割り切り方も時には精神衛生上いいのかもしれない。
いやいや、答のない問いかけに自分の身を委ねる時間こそが、貴重で尊いものだ、それが青春だ!とお叱りを受けそうだが.....。
因みに、ブログでは、証明できないものの存在を証明したはずの数学理論自体が、ある日クルト・ゲーデルによって「数学理論は不完全であり、決して完全にはなりえないこと」を数学的に証明されてしまったと説いていた。