6:大徳王寺の戦い <相模次郎物語>
・・・ この戦いは、北条時行が”北条得宗家再興”を目的とする「北条残党」の最後の戦いになります。以後の北条残党は、南朝派の中に生き残りをかけ、存在を薄くしていきます。
冠親の諏訪頼重の孫・諏訪頼継が大祝になっており、諏訪神党を代表して、若年ながら援軍します。中先代の役を先導した父・時継と爺・頼重は、鎌倉で幕府軍・新田義貞に敗北し自害しています。その後、暫く伊豆に隠れていた時行は、南朝最強の軍団を率いた北畠顕家に望みを託します。その為には、北条得宗家を滅ぼした仇敵の後醍醐天皇に赦しを得て朝敵の汚名を削ぎ、仲直りせねば成りません。
年譜 ・・・
1337.7 延元二年、北条時行は、後醍醐天皇に「勅免願い」を申し出る
1337.12 北条時行が南朝に降伏し、北畠勢が「鎌倉攻め」をしている時に、北畠顕家軍に合流し」ます
1338.1.20 青野原の戦い。北畠軍として、足利軍と戦います。この戦いに、宗良親王も合流します。
・・・ 青野原の戦いの勝利の後、次々と新手を繰り出して参戦してくる足利勢に、戦い疲れた顕家軍は吉野へ退きます。時行、宗長親王、北畠顕家は吉野へ。
そして ・・・
1338.6.10 般若坂・石津の戦い・北畠顕家は、般若坂で足利勢に敗れ、石津にて戦死。
1338.9 南朝各皇子を戦地へ派遣計。
・・・義良親王を陸奥へ、
・・・宗良親王を遠江へ、
・・・懐良親王を九州へ
・・・義良親王・宗良親王・北畠親房ら伊勢大湊より出航する。
・・・大風に遭い義良親王の船は伊勢へ吹き戻される。
・・・宗良親王は遠江へ、親房は常陸へ到着する。
・・・北条時行は、宗良に同行したと思われる。
1338.9.11 延元三年 暦応元年
・宗良 舟で、伊勢大湊より陸奥国府へ出航、
・しかし難破し遠江に漂着、
・井伊谷の井伊道政のもとへ。井伊谷城。
・・・ 時行は、井伊谷で宗良親王らと分かれて信濃へ行きます。
** 中先代の役の時、先導した主力隊の諏訪頼重らの諏訪家の部隊はもういません。あの時糾合した大軍には、先駆けた保科弥三郎が合流していたと言う伝承があるが、以後もずっと同行していたかは定かではありません。伊豆に隠れたときは、側近が僅か二残り、伊豆の挙兵した時は伊豆の北条党が加わり、鎌倉で、顕家軍に合流したときに、鎌倉に残っていた北条党が大挙して時行軍に糾合して五千の手勢に膨れていました。その後、青野原で勝利したものの、後の戦いで時行軍は半数に減り、遠州灘の海難でさらに減っています。
井伊城に暫く居てから、時行は、諏訪へ戻り、兵を募って再挙兵することを決意します。
宗長親王とともに戦ったのは、青野原以来井伊谷城まで約十ヶ月ほど、分かれて時行は信濃へ向かいます。 **
大徳王寺の戦い
興国元年/暦応三年(1340)六月、時行は諏訪頼継の助けを得て信濃大徳王寺城で挙兵する。
*箕輪町誌(歴史編)
・・・・・暦応三年(一三四〇六月、伊那郡の大徳王寺誠に立龍って、信濃の北朝方小笠原と戦う
*守矢文書の「守矢貞実手記」は、次のように記してある。
・・・・・(附裳)守矢貞実手記勢、時口難勝負付、難然次良殿、次無御方、手負死人時ヒ「貞実手記」(庚〉失成ケレハ、十月廿三日夜、大徳王寺域開落、大祝神職ト暦応三年献相模次良殿、六月廿四日、信濃国伊那郡被楯箆メ交手負死人ニ事非例也、雄然父祖賢慮不二也、故疑念(辰)(当)(嗣、下同ジ)者、彼神道可拝見申、以此旨大祝頼継三七日勤行、致葬送大徳王寺城、口大祝頼継父祖忠節難忘而、同心馳籍、当国(諏訪)由、種秘印結ニハ、十三所致参詣、木門川いい]給口モ神事如守護小笠原貞宗、府中御家人相共、同廿六日馳向、七月一形斗也、如此印口仕神口大祝殿、授神長、日於大手、数度為合戦、相模次良同心大祝頼継十二才、数十ケ度打勝、敵方彼城西尾構要害、為関東注進、重被向多(『伊那史料叢書』)・・・・・
=> 諏訪上社の大祝諏訪頼継は、当年わずか十二歳であったが、北条得宗家に対する父祖の忠節を忘れがたく、時行に味方して馳せ参じ、数十度の合戦に奮闘した。時行勢は小競り合いでは数十回勝利したが、小笠原勢は関東管領に応援を要請し、新たに参入する新手の攻撃陣に、ついには力尽きて、十月二十三日大徳王寺城は落城し、諏訪頼継は諏訪に逃れ、時行もいずれかへ逃れ去ったという。
・・・南北朝時代、伊那の「大徳王寺城」に立て籠った北条時行と、足利氏に属する小笠原貞宗が4ヵ月に渡る合戦を繰り広げた。大徳王寺城は、長年その位置が確認できず幻の古戦場とされたが、守矢貞実手記の解読により溝口丸山の上ノ城であることが推考された。
・・・住所:伊那市長谷溝口丸山に比定される。常徳寺の上辺り。
さてここで、井伊谷城で敗れた宗良親王が、大徳王寺で挙兵した北条時行に合流すべく、井伊谷から大徳王寺を目指したとする説があります。この部分を検証してみます。
年譜
興国元年 1.29 三嶽城落ち、大平城に移る。(井伊谷城支城・三嶽城)
6.24 北条時行信濃大徳王寺に兵を挙げる。
8.20 大平城落ちる。(井伊谷支城・大平城)
10.23 大徳王寺陥落。
上記の年譜をみると、宗良のいた井伊谷支城・大平城が落ちる頃は、緒戦華々しかった時行軍が疲弊してきて、さらに包囲している小笠原軍に援軍が続々押しかけてくる頃と重なります。
その頃の、歩行の移動では、距離や地理を考えると1~2ヶ月の移動の日数を要すると考えなければ成りません。大徳王寺城が落城する前後に、宗良親王が付近まで来ることは物理的には可能ですが、敵軍に包囲され陥落寸前の大徳王寺城に合流するとは到底思えない、と言うのが結論です。
1341 興国二年春 宗良親王、越後寺泊に在住。
・・・「興国二年(1341)、新田義貞の遺子・義宗に擁立された宗良親王は越後の寺泊へ進撃し・・・」
大徳王寺が陥落するのが、1340年(興国元年)十月末で、越後・寺泊に現れるのが1341年(興国二年)春。大徳王寺に立ち寄ったか否かは不明だが、そのまま北上して寺泊の新田義宗の元へ行っています。
1338年 南朝派の北畠顕家、新田義貞がともに戦死した後、南朝の軍事は、残存勢力大きい新田義宗が、北畠に変わって主力になっていきます。