探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

諏訪大社の上社と下社の対立 ・・金刺家の没落

2013-12-07 23:29:36 | 歴史

 金刺氏の没落・・・

諏訪大社と金刺氏

傍から見ると、諏訪大社は、あたかも一つの神社に見えます。上下社・春秋宮併せて、本来なら一つの神社の筈です。でも、故あって歴史を調べると、鎌倉期以降、上社と下社の対立の時代がずっと続きます。それが内乱にまで発展してしまうのが、諏訪家の文明の内訌です。この内訌で、下社の金刺氏は滅亡してしまいます。その後、下社は係累の武居氏を祝にあて、下社を諏訪湖畔北側に移設しながら、上社との対立の火を収めながら、現在に繋がります。

諏訪大社の成立は、神話の時代に、天照大神と大国主命が”国盗り”を争い、天照大神の側の武甕槌命と大国主命の次男・建御名方命が相撲で決着し、敗れた建御名方命が諏訪に逃れた上社を造り、その妃・八坂刀売命が下社を造ったとされ、本来は一体とするのが習わしだったようです。
・・武甕槌命・タケミカズチノミコト
・・建御名方命・タケミナカタノミコト
・・八坂刀売命・ヤサカトメノミコト
天照大神は今の皇室に繋がり、大国主命は出雲系祭神で、確かにこの二大勢力は、”国盗り”で争ったのかも知れません。このことは古事記に記載された内容だが、日本書紀には記載されていません。

それでは、この金刺氏を追ってみます。神話の時代、神話の世界は得意ではないので、およそ鎌倉期よりの諏訪神社、上社と下社の”ありよう”から始めます。

治承四年(1180)甲斐の武田信義が、頼朝の挙兵に応じ、諏訪明神に祈って武勲をあげたとき、その奉賽として上社に平出・宮処両郷、下社に龍市・岡仁谷両郷を寄進しており、承久三年(1231)には幕府が越前国宇津目保を寄進している。すでに前九年の役(1051)の頃から、両社の大祝および社人は祭祀のかたわら武士としても活躍し、族党を結束して神家党と呼ぶ有力な武士団に成長していた。

・・・平出・宮処は現在平出・宮所、龍市・岡仁谷は現在辰野・岡谷として地名をのこしています。

・・・これを見ると、鎌倉時代初期に諏訪大社は”軍神”として、周囲に認知されていたことが覗われ、さらに”武士団”を形成していたことが分かります。

平安時代の後期になると、諏訪大社の上社・下社の神主系は、別流として独歩に系譜してきたことが顕著になります。上社の神主大祝は当初は神(ミワ)家後に諏訪家・諏訪一族として、下社の神主大祝は金刺家・金刺一族(当初は諏訪家)として、一族を主張し始めます。

この金刺氏の成立は、かなり不鮮明で、科野国造家から分かれて同化した説、あるいは、東征から戻った源氏の氏族が信濃に帰化・婚姻して金刺氏と同化した説などありますが、どうも外部からの有力氏族が金刺氏と婚姻を通して同化したのは確かではないかと思われます。ただし、資料が不足しているため、一族に伝わる伝承を根拠にしているため、定かではありません。

下社の金刺氏の祖は、金刺舎人と言うことになっているが、「金刺系図」によれば、貞継のとき下社の大祝となったことが記されているのをみると、ここまでにも混乱があったことが覗われます。『信濃史科』によれば、一族に諏訪・上泉・手塚の諸氏がある、と述べてあり、再び諏訪氏も同族であったことが記されています。

金刺氏の武士化・・・先述のように金刺氏は武力を蓄え、下社秋宮に隣接する地に霞ヶ城を築き武士化していった。金刺氏は手塚とも称し、手塚太郎光盛は木曽義仲に従って勇名を馳せた。光盛の兄盛澄は鎌倉の御家人となった。・・・

宝治2年(1248)、諏訪上社と下社との間で争いが起きます。小さな諍いは以前にあったのかも知れませんが、”争い”が歴史に登場します。

・・・宝治2年は、・・諏訪大社造営の年度に当たる、その年に上下社間に本宮争いが生じた。下社大祝の金刺盛基が、その解状で訴えた。しかし上社の諏訪氏は、鎌倉幕府の得宗家御内人であり、且つ重臣である。幕府の裁可は当然、「去年御造営に下宮の祝盛基は、新儀の濫訴を致すによって」として裁下し、「上下両社の諸事、上社の例に任せ諸事取り仕切る」とした。・・ しかし、(翌宝治3年(1249))・下社大祝盛基は、この幕府の下知に納得せず、上宮は本宮ではないと再度申し立てた。大祝信重解状は、それに対する長文の反論で、「進上御奉行所」として幕府に訴えた。
 その内容は7ヵ条で  一、守屋山麓御垂跡の事、一、当社五月会御射山濫觴の事、一、大祝を以て御体と為す事、一、御神宝物の事、一、大奉幣勤行の事、一、春秋二季御祭の事、一、上下宮御宝殿其外造営の事
 鎌倉中期以前の諏訪大社の鎮座伝承、神宝、祭祀、神使御頭(おこうおとう)、大明神天下る際の神宝所持、御造営等、詳細に上社が本宮である由来を記述して、先例通りの恩裁を請願している。・・・

この時の下社大祝は金刺盛基、対する上社大祝は諏訪信重、鎌倉幕府に訴状合戦をしている。・諏訪大社造営のこととは、神事運営の事か?。時は北条得宗家の時代に移り、上社諏訪家は得宗家と御身内の関係の親密さを増している時、裁定は上社有利に下される。
・・・「大祝信重解状」・諏訪家側の訴状のこと、神長守矢家に永らく秘蔵されていた。

この後、しばらく諏訪大社、上・下社のことは歴史資料に詳しくない。

元弘三年(1333)、北条氏が滅亡すると、後醍醐天皇による建武の新政が開始された。しかし、その政治は長く実務から離れていた公家たちによる時代錯誤なもので、公正を欠くことが目立ち、多くの武士から反発を受けた。信濃国はかつて北条氏の守護任国であり、北条政権の強力な基盤になっていたことから、鎌倉幕府滅亡後も、神党は旧北条派の中心勢力として各地に転戦した。

中先代の乱・・・とくに北条氏滅亡の際、北条高時の遺児時行が諏訪社大祝のもとに匿われ、諏訪氏の後援で建武二年(1335)挙兵し、鎌倉に攻め上り一時鎌倉を制圧した。
中先代の乱と呼ばれる争乱で、中先代軍の鎌倉支配は二十日間に及んだが、尊氏の巻き返しで時行は連戦連敗して敗走し、諏訪頼重とその子の大祝時継らは自殺して中先代の乱は終熄した。

南北朝時代・・・その後、中先代の乱に北条派と結んだ武士たちは、南朝に帰順して信濃宮方として武家方=信濃守護と対立した。その中核になったのは、諏訪上社の諏訪氏、そして下社の金刺氏らであった。
その後、信濃には宗良親王が入って南朝方の中核となった。しかし、情勢は次第に南朝方の頽勢に傾き、正平十年(1355)、宗良親王は信濃南朝方を糾合して守護小笠原氏に決戦をいどんだ。桔梗が原の合戦と呼ばれ、結果は南朝方の敗北に終わった。この合戦に上社諏訪氏は南朝方の中心として参戦したが、下社金刺氏は傍観的立場をとり、その後、幕府・守護方と親善関係を結ぶようになった。
結局、南北朝の争乱は北朝方=武家方の優勢に推移し、ついに明徳三年(1392)、足利幕府三代将軍義満によって南北朝の合一がなった。以後、足利幕府体制が強化され、信濃も守護権力が浸透するようになった。

鎌倉期晩期と室町期前期まで、諏訪大社の下社の金刺氏と上社の諏訪氏は、ともに北条側・南朝側に立って戦っている。
変化が起こったのは、桔梗ヶ原の合戦以降で、下社金刺氏は両軍に属さず、傍観の立場を取っている。

これを、小笠原守護を交えた立場から見て見ると・・・北条氏に代わり小笠原貞宗が信濃守護として入ってきたのが建武2(1335)年であった。小笠原氏は鎌倉に館を構える「鎌倉中」の有力御家人であった。ただ鎌倉末期には、「御内人」でもあった。しかし、北条氏を見限るのも早く、足利高氏に従い戦功を挙げ、それで信濃守護に補任された。
しかし信濃国内には、北条御内人の最有力者・諏訪氏をはじめ、北条守護領下、守護代、地頭、地頭代として多くの利権を有する氏族がいた。そこに北条氏を裏切った小笠原貞宗が、守護として侵入し、旧北条氏領を独占し、それに依存する勢力を駆逐していった。信濃国人衆旧勢力は、新政権を排除し自己の所領の保全・回復をめぐって熾烈な戦いをせざるえを得なかった。その北条氏残党の中核にいたのが諏訪氏であった。北条得宗家の重鎮でもあったため、信濃国人衆は諏訪氏を盟主として、「神(しん;みわ)」氏を称し、「神家党」として結束していた。それが建武2年7月に起きた中先代の乱であった。その乱以後の争闘が、後醍醐天皇の建武の新政を瓦解させた。・・・諏訪頼重・時継父子は、10歳前後の北条時行を擁して挙兵する。中先代の乱の始まりである。同月、船山郷(更埴市・戸倉町)の青沼とその周辺で、市河氏が守護方として北条方反乱軍と戦っている。船山郷の戸倉町には、当時、守護所があった。しかしこの戦いは、陽動作戦で、主力本隊は府中を攻め、国司博士左近少将入道を自刃させている。この勝利で信濃国人衆の過半を味方にし、鎌倉へ進撃ができる兵力を押さえた。7月には足利直義を破り鎌倉を制圧した。しかし京から尊氏が攻め下ると、金刺頼秀が討ち死に、8月には、諏訪頼重・時継父子とその一族が鎌倉大御堂で、全員が顔を切り自裁している。顔を切りことによって、北条時行も自害していると見せ掛けるためであった。諏訪頼重以下、300余騎がここで果てている。 時行は無事鎌倉を脱出している。
・・・この中先代の乱で、金刺頼秀が、時を追って諏訪頼重・時継父子が討ち死にしている。

そして南北朝時代へ・・・諏訪頼重が、鎌倉に出陣後、大祝を継いだのは、時継の子・頼継であった。このため朝敵となった頼継は神野に隠れる。尊氏は大祝の継承を、大祝庶流の藤沢政頼に就かせると、頼継の探索を厳しく命じた。頼継は、わずか5,6人の従者を連れて、神野の地をさ迷うが、諏訪の人々による陰ながらの援助で逃れる事ができた。その後も信濃の諏訪神家党、その他の国人衆は、足利政権の守護小笠原氏及びその麾下に与するに国人衆と、果てしない闘争を続けた。

・・・この上記の経緯の部分は、諏訪家の文明に内訌の原因になるところで、重要です。上社大祝諏訪頼継は、本来であれば正統に諏訪上社の棟梁であったが、朝敵であったため足利尊氏から追われる立場になってしまった。代わりに、上社大祝は、尊氏から同族とはいえ傍流の”傀儡”が立てられてしまった。山間を逃げ回った頼継は、高遠付近に隠棲所をつくり隠れ住んだが、自らが諏訪上社の正統な棟梁であることを誇っていた。頼継はこうして高遠家の祖になったが、高遠家の以後の嫡流も、頼継の意志を継いだものと思われる。高遠家最後の頼継は、祖の意志と名前を引き継ぎ、上社棟梁への意欲は相当に強いものがあったと思われる。ここの部分をきっちり押さえないと諏訪の内訌への関わりとその後の高遠家の動向が分かりぬくくなる。

・・・この隠棲場所の比定は、当時の状況証拠から、”荒神山城”の可能性が高い。また当時は、高遠城や高遠の地名は無く、この地方は木曽氏の系列の氏族が勢力を持っていたと思われる。このあと、高遠一揆衆の混乱もあり、高遠の地名と高遠城が出来、高遠満継のあたりから、高遠家は高遠城が居城になったと推測される。

・佐久の望月氏は、小笠原勢に城を破却されている。9月北条時行に味方した国人衆の本拠地が攻撃された。しかも小笠原勢に与する者は市河一族と村上信貞で、対して諏訪一族は徹底的に交戦を続け、その過酷な試練を乗り越えて、やがて戦国領主として生き残った。

以後諏訪直頼が一時、観応2(1351)年、直義方として尊氏方の小笠原と善光寺平で激戦を繰り返していたが、尊氏が南朝方と和睦し勢力を回復すると形成は逆転し、直義は翌年2月不自然死を遂げている。
諏訪直頼は観応3(1352)年南北朝期最期の大反撃をする。新田義宗や上杉憲顕と組み、諏訪・滋野氏を主力とする信濃勢が、宗良親王を擁して、金井原・小手指原で尊氏方と戦う。しかし敗退し親王は越後へ逃れたようだ。
文和4(1355)年春、宗良親王は越後でも南朝方が敗退すると、信濃に逃れる。諏訪氏・金刺氏・仁科氏も必死の結集に努め、再起をかけて8月府中の制圧にむかう。しかしその途中、桔梗ヶ原(塩尻市)で守護小笠原長基(政長の子)と激戦の末、敗退し、信濃南朝軍は瓦解していく。翌延文元年、信濃国境志久見郷(栄村)で、直義方の残党・上杉憲将も敗れている。この様にして、信濃南朝勢力は衰退していく。
 
上社との抗争 ・・・ 応永七年(1400)、守護小笠原氏に対して村上氏を中心とする北信濃の国人らが反旗を翻した。「大塔合戦」と呼ばれる争乱で、守護方の敗北に終わった。この戦いい上社諏訪氏は国人方に味方して陣代を送ったが、下社金刺氏は守護寄りであったようだ。
・・・下社金刺氏は、桔梗ヶ原の合戦以降、明かに心変わりしてきている。それに対して上社諏訪氏は、反守護の立場を一貫している。このような上社と下社の政治姿勢の相違は、相互の対立をよぶようになった。加えて、信濃守護で府中城主の小笠原氏が諏訪社の上社を牽制するため下社を後援したことから、上社と下社が対立し抗争が繰り返されるようになった。

さらに、従来上社大祝職には諏訪氏惣領が就いた諏訪氏宗家でも大祝家と惣領家とに分かれ、一族内紛の芽を有していた。このような状況のもとで、上社と下社の抗争が続き、その抗争は必然的に武力を伴うものであった。

文安六年(1449)、上社と下社は武力衝突し、守護小笠原宗康は下社を支援したが、戦いは上社勢が下社を攻め、社殿を焼き払うという結果となった。その後も、上社と下社の抗争が続いたが、おおむね下社の劣勢であった。

やがて、十五世紀なかごろになると幕府体制に弛緩が見えるようになり、時代は下剋上の様相を見せるようになった。一方で、中世争乱のなかで惣領制的な分割相続から嫡子(惣領)による単独相続へという変化があった。その結果、一族・被官を巻き込んだ相続争いが各地で頻発するようになった。信濃守護小笠原氏では、家督をめぐって内訌が起った。他方、武力によって下社を圧倒していた上社の諏訪氏内部でも大祝家と惣領家とが対立し、分裂状態となった。
・・・ 十五世紀なかごろから、対立構造に変化が起こってくる。それまでの上・下社の争いは、神事の運営方法や政治的な立場の相違からの対立だが、嫡子の相続権が絡む領土・経済戦争の戦国時代の内容の対立が顕著になってくる。諏訪大社で言えば上・下社に加えて惣領家と大祝の隠棲別家の高遠家の、四どもえの戦いに発展してくる。・・上社大祝と高遠家は、ほぼ共同歩調なので、三社対立(鼎立)という方が正確かも知れない。

戦乱のなかで滅亡 ・・・文明十二年(1480)頃になると、諏訪大社の上社の内訌が激化してくる。そして、大祝継満は高遠の継宗および小笠原政秀との連係を強め、一方の惣領政満は藤沢氏とともに府中小笠原長朝と通じるようになった。ここに、諏訪氏の分裂と小笠原氏の分裂とがからみ合うという、複雑な政治状況となってきた。

この諏訪上社の大乱に対して、諏訪下社の金刺興春は上社大祝・継満に味方して挙兵した。下社は永年にわたって上社と紛争を起こして衰退の一途にあったが、上社の内訌を好機として頽勢挽回を図ろうとしたのである。分明十五年、金刺興春は継満の一派とともに高島城を攻略し、上桑原・武津を焼いた。対する諏訪勢は矢崎肥前守らを中心として出撃し、金刺興春を討ち取り、下社に打ち入ると社殿を焼き払い一面の荒野と化したのである。

興春が戦死したのち、子の盛昌が継ぎ、ついで昌春が継いだ。一方、諏訪上社の抗争は頼満によって克服され、永正十五年(1518)、頼満は昌春の拠る萩倉の要害(山吹城)を攻撃した。上社大祝家に伝わる『当社神幸記』によれば、萩倉要害は自落して、一類の面々家風ことごとく断絶、没落したとある。ここに、金刺氏の没落は決定的となったのである。

社殿などを焼かれ、萩倉城を落とされた下社の大祝金刺昌春は甲斐国の武田信虎を頼って落ち延びた。これが信虎に諏訪郡侵攻の口実を与えるところとなり、享禄元年(1528)信虎は下社金刺氏を押し立てて諏訪に侵攻したのである。このときは、諏訪氏がよく武田軍を神戸で撃退し、逆に享禄四年には韮崎に出兵した。武田氏の力を借りて下社再興を目論んだ昌春は、享禄四年(1531)に飯富兵部らが信虎に反乱を起した時に戦死したと伝えられている。・・・下社大祝・金刺氏の滅亡。

かくして、代々下社大祝職を継いできた金刺氏であったが、戦国時代末期に至って断絶となった。その後、支族の今井氏が入って武居祝と称し祭祀を継承したが、大祝を名乗ることはなかった。

諏訪のその後 ・・・諏訪氏と武田氏の小競り合いは、その後も続いたが、天文四年(1535)に両者は和睦した。しかし、諏訪氏と武田氏の抗争は、のちの武田晴信の諏訪平定へと連鎖していくのである。
ところで、高遠の地は古来より諏訪上社の領地であったが、金刺昌春が甲斐国に落ち延びた頃、諏訪一族である高遠頼継が統治していた。高遠頼継は諏訪上社の惣領の地位を狙い、諏訪大社下社の金刺氏と結んで武田晴信の力を借りて諏訪氏を攻撃した。こここに出た金刺氏は、武居祝のことであろう。

その後、武田氏と高遠氏の両面攻撃にあった諏訪頼重は降伏し、甲斐に連行され幽閉の身となった。ほどなく、諏訪大社上社の大祝諏訪頼高と共に切腹させられ、諏訪惣領家は滅亡した。その後、諏訪の地は高遠頼継と武田晴信とが二分したが、それに不満を持った高遠頼継が、諏訪地方を武力制圧した。結果として武田晴信と対立、宮川の戦いに敗れた頼継は高遠に逃げ帰り、諏訪一帯全ては武田晴信の領有に帰した。



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