探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原信定  ・・・ 鈴岡小笠原家歴代

2014-03-01 00:03:38 | 歴史

            鈴岡 

 小笠原信定

守護・小笠原政秀が謀殺され、途絶えた鈴岡小笠原家が復活します。

鈴岡小笠原家の復活・・・

経緯・・・明応二年(1493)頃、松尾城の小笠原定基は鈴岡城主で信濃国守護、小笠原惣領職だった小笠原政秀を父子ともども謀殺します。この時、定基は伝来された足利家の文書を手に入れようとします。政秀の正室は、この文書の家宝を持って、実家下条家に逃れます。定基は、是非とも手に入れようとして、下条家を攻めたため、下条家から援軍を頼まれた小笠原長棟と激しく争うこととなり、遂には深志小笠原氏と下條氏の連合軍に敗れ、定基は甲斐武田氏の元に逃れます。ここで漸く、小笠原家の内部対立は、府中小笠原家によって統一されます。府中小笠原貞棟は、子の信定に、長く廃絶された鈴岡家を相続させ、空位になった松尾小笠原家の領土も統治させます。

*ここで、争奪戦の的となった「足利家の文書」の文書とはなにか、が気に掛かります。上記の筆者は、小笠原家の、信濃守護とかつ宗家の証を、足利将軍家が認可する類の書と断していますが、”弓馬の儀礼書」に類するものの可能性も否定できません。どちらにしても、小笠原宗家を証する書が、長棟以前は、南信の伊賀良荘にあったことは事実であり、長棟まで府中小笠原家は守護職を生んでいないところを重ねると、長棟以前の時代まで、小笠原宗家は、府中ではなかったのではないかと推論できます。

小笠原信定

小笠原信定:永正十八年(1521)-永禄十二年1月6日(1569.2.1)
戦国時代の人物。府中小笠原家の一族。小笠原長棟の次男。鈴岡城主、松尾に君臨。
子に小笠原長継。兄に小笠原長時。孫次郎、民部大輔。

松尾小笠原家に対抗するため父と兄により派遣され、鈴岡小笠原家を再興する。兄の長時が敗北した後も、伊那地方に拠り抵抗を続けたが、天文二十三年(1554)に武田晴信の伊那侵攻の前に敗れた。府中より逃亡していた小笠原長時と共に下条(下伊那郡)へ退却。その後兄と三好氏を頼り、その客将となる。永禄十二年(1569)、三好一族と共に足利義昭を本国寺に襲撃するも敗れ、信定は京師桂川合戦で戦死する。

鈴岡城・・・松尾小笠原信嶺の管理下・・・松尾小笠原家が武蔵野本庄城移封とともに松尾城・鈴岡城ともに廃城。

参考:松尾小笠原家

一方、松尾家は、定基は、小笠原長棟と激しく争い、遂には深志小笠原氏と下條氏の連合軍に敗れ、定基は甲斐武田氏の元に逃れます。武田が、信濃侵攻の時、定基の子信貴は 先鋒として侵入し 鈴岡家を再興していた長棟の子信定を攻め、松尾城主に返り咲いています。・・・これにより松尾小笠原家を再興した松尾小笠原家の信貴は、山県昌景に属し、伊奈先鋒衆百騎を預かって戦役をこなします。
信貴の子・小笠原信嶺(1547-1598)・52歳没)・・小笠原信貴の長男。十郎三郎。天文十六年生。武田信廉の娘を娶る。松尾城主。
天正十年、織田家に降り、高遠城主仁科信盛攻めの案内役となる。武田滅亡後、信長から知行を安堵される。本能寺合戦後、家康に仕える。酒井忠次に属し、小牧合戦に参加。天正十六年、忠次の三男信之を婿養子に迎える。小田原攻めで信之と共に先鋒となる。信州松尾城から武蔵児玉郡本庄城一万石に移る。

松尾・鈴岡・府中の鼎立の小笠原家の、どれが宗家だ、という書き方には、かなりの混乱があるようです。覇権争い、宗家争いの、血みどろの抗争をしたのですから、無視も出来ない訳ですが、宗家たる意識と後ろ盾の証拠を考証すると、時系列の変遷が一番合理的のように思えます。室町初期は、国衙の置かれたところに政治の中心があったようですが、応仁の乱以降は、実力者のところが、守護所になっていたようです。小笠原長秀のように、信濃国守護ではあるが、松尾にも府中にも住んだ形跡のない人を、府中井川城主と呼ぶのは矛盾の増幅のような気がします。

 

 

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。