探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原家と六波羅探題

2016-06-05 14:12:54 | 歴史

 

笠原家と六波羅探題


 

六波羅探題の成立

六波羅探題の成立は、「承久の乱の戦後処理」の必要から生まれた。したがって、時期は承久三年(1221)のことである。
背景は、「承久の乱で、「後鳥羽上皇方に加担した公家・武士などの所領が没収され、御家人に恩賞として再分配された。これらは、それまで幕府の支配下になかった荘園で、幕府の権限が及び難い西国に多くあった。再分配の結果、これらの荘園にも地頭が置かれることになった」。とはいえ、西国の豪族の勢力が、完全に削がれた訳ではなかった。何か事あらば、西国の豪族が、朝廷側と連絡を取りながら反抗に出ないとも限らない。承久の乱の戦後は、混乱のさなか、このような気運がかなり残った状況であった。
そこで、「幕府側は朝廷方の動きを常に監視し、これを制御する必要が出てきた。朝廷の動きをいち早く掴める白河南の六波羅にあった旧平清盛邸を改築して役所にし、北条泰時・北条時房の二人が六波羅の北と南に駐留してこの作業にあたり、西国の御家人を組織し直して京の警備・朝廷の監視・軍事行動などを行わせた。これが六波羅探題の始まり」である。

六波羅探題の目的
 1:「幕府側は朝廷方の動きを常に監視し、これを制御」する
 2:「西国の御家人を組織」して六波羅探題に組み込む
 3:「京の警備・朝廷の監視・軍事行動」
 おしなべて、六波羅探題は、鎌倉幕府の京都・西国への治安政策とみてよいと思う。
 
六波羅探題の組織
六波羅探題は、警察・軍事機構の役所であり、役職であった。後に建物自体も六波羅探題と呼ばれるようになる。
・この「探題」という役職はは執権・連署に次ぐ重職とされた。
・「探題」は、伝統的に北条氏から北方・南方の各一名が選ばれて政務に当たった。
・「探題」には北条氏一族でも将来有望な若い人材が選ばれる事が多かった。
・「探題」の任務を終えて、鎌倉に帰還後には執権・連署にまで昇進する者が多かった。
・「探題の」の下部組織には、引付頭人、評定衆、引付衆、奉行人などがあった。
・---「探題」は、鎌倉の組織に準じた下部組織などと同様。

 *引付衆 ・・・領地訴訟の窓口役人。
 *引付頭人 ・・・引付衆のヘッド。
 *評定衆 ・・・六波羅探題内での裁判官兼行政機関の長。
 *奉行人 ・・・右筆方とも呼ばれ、室町幕府の法曹官僚。
 ・---時代の変遷とともに、引付衆の役割が有名無実になり廃止される。
 ・---時代の変遷とともに、右筆方の知識レベルの高いもの、実務能力の高いものは、裁判の判決文の原案や奉書・御教書などの作成にかかわり、政権・政策の作成に関与し、将軍側近になるものも多かった。

この組織形態は、鎌倉幕府の組織形態で、「六波羅探題」も同じ形態で作られたようです。東国と西国との地域分割とみることができそうです。ただし「六波羅探題」の下級官吏は西国出身者が多く、しかしその上官に位置するヘッドは、東国の有力な鎌倉御家人が占めていたことが微証ながらあったと記載されています。

*脱線・・・時代が変わって室町時代になると、この奉行人の一人に「諏訪円忠」が居ます。前北条側の諏訪一族の人です。面白いのは、室町幕府に反抗する旧体制派の牙城の諏訪神族の一員で、なおかつ南朝の強力なサポーターの諏訪上社の神党の一員です。にもかかわらず、諏訪円忠は室町幕府の優秀な官僚の「奉行人」であり、末は右筆にもなります。・・・この諏訪円忠が、南朝側に立って、幕府から目の敵にされて、崩壊寸前になった諏訪上社を、幕府の側から立て直していきます。・・・このパラドクスは非常に面白いストーリーだと思います。

以上が、「六波羅探題」成立の時期と組織の概要であるが、この時期の京都における「六波羅探題」を構成する鎌倉御家人の内容はどのようであったかが、京都に拠点を築いた「松尾小笠原家」の成立と多くかかわる。

小笠原書院(現・小笠原資料館)

論文「探題・評定衆・在京人」より -・「六波羅探題の研究」森幸夫

この論文によれば、承久の乱で勝利した鎌倉幕府は、京都に駐留したにもかかわらず、長井、藤原、小笠原家を「鎌倉中」として「在京」の上位に置いたようである。この「在京」中の御家人は畿内・西国の豪族も混じり、ランクがやや落ちて上官が「鎌倉中」御家人であったと指摘されている・個別検証では、「鎌倉時代の信濃御家人」(「長野」p185、1993)

・小笠原氏は、承久の乱後しばらくは畿内の有力守護として存在し、小笠原入道跡(長清)は畿内と東海道数国(豆・相・甲・遠・淡)の軍事的統治下を意味する管領の地位として、東山道軍大将としての存在を誇示したものと思われる。
以後、1250年代になると「六波羅探題・在京人」の中に小笠原の名前が見えるという。
・小笠原長径:宝治元年(1247)5月9日条・在京人(六波羅評定衆)・・「葉黄記」
・小笠原十郎入道・同孫二郎入道(小笠原長政)在京人(六波羅評定衆)・・「建治三年記」(1277) 
 が確認されている。
 *孫二郎は小笠原長忠の別名でもある。*小笠原十郎は小笠原行長(藤崎行長?)この場合、十郎・孫二郎が併記なので同時代と考察すれば、長政は行長の在京人(六波羅評定衆)を引き継いだとも推定できる。
・この時期に、小笠原長径は阿波国守護ともなっている。(有力御家人の長井氏は備前備後周防、藤原氏は安芸周防の守護になっている)

・・・森幸夫「六波羅探題の研究」は「群書類従」研究を論拠にしています。「群書類従」は江戸時代に編纂された・古文書や資料散逸を惜しむことから集められた資料集です。「伝聞」や「語り継ぎ」があるにしても、恣意的な婉曲は意図されていないこと、権力への諂いも感じられないことから、資料としては信頼できると判断しています。

上記の論文を是として参考すれば、承久の乱の平定で多大の功績あった小笠原長清・長径が、それ以後も京都に在住して京都、畿内、西国に睨みを利かして、軍事的に貢献があったことが検出できそうである。
それで、六波羅探題の創立の時、初期から関わり、すでに松尾小笠原長径から「六波羅探題評定衆」という位置づけであり、以後「松尾小笠原」一族が一貫として「六波羅探題」にかかわり続けたという痕跡の証であろうと思う。

「六波羅探題」は当初の目的は、西国の豪族の反抗の監視があり、朝廷の幕府への反目の監視と調停があり、京都の治安維持があり、あと豪族の不満の訴訟の裁判が役目であったが、時が経つにつれ、西国への監視が薄れ、領地問題の訴訟が多くなったようである。
そうすると、必然的に文官への依存度が増していく。
小笠原家は、歴代「右馬介」の職務を継承して、治安・警察機構を独占的に継承していく。ここを足場にして、「検非違使機構」を阿波小笠原家が、「右馬介」の職務と小笠原長清から始められた「小笠原流武家礼法」とで武家本流の底流に位置するようになっていく。---もう少し平たく言えば、京都治安維持の軍馬を管理し、独占的に「軍事・警察の機動力」に影響を及ぼし、さらに「礼法」は武家の棟梁たる「格式・儀礼」を定式化するのを助けた。武家の棟梁を「弓取り」というが、小笠原流礼法は、まさに「馬乗りと弓取り」において象徴的な意味を付与した。

以上を把握したうえで、質問の「小笠原長政は六波羅探題の評定衆であったことから、霜月騒動後に長政の子で在京御家人であった長氏が惣領に選ばれたという見解」については、特に否定もしませんが、すでに一族としての「松尾小笠原家」が京都「六波羅探題」に大きな流れから比重を占めていたから、というほうが筋道の精度が高いと思います。

足利高氏(尊氏の前)が、鎌倉幕府に反旗を翻す決心をしたとき、勝敗のポイントを「六波羅探題」の味方化が必須と考えて協力を依頼したのは、小笠原貞宗よりはむしろ貞宗の父・宗長の方だった、と何かで読んだ記憶があります。さもありなん、と思っています。

最後に、ここで注目したいのは、小笠原長径の復権です。
頼朝のあとの二代将軍の頼家の近習・五人衆の一人・小笠原長径は、「比企の乱」に連座して、公職追放・遠島・領地没収・・・(公的な罪状・吾妻鑑・実際は公職追放だけ・市川文書から類推)。これが、承久の乱で、東山道軍の大将・小笠原長清とともに親子で京都へ攻め上り戦功をあげます。
それだけでも、功績で名誉回復と公職復帰になったわけですが、・・・
この時,京都には「近習・五人衆」の一人・北条時房が戦後処理できていました。そして、「六波羅探題」の創設です。・・・「朝廷の動きをいち早く掴める白河南の六波羅にあった旧平清盛邸を改築して役所にし、北条泰時・北条時房の二人が六波羅の北と南に駐留してこの作業にあたり、西国の御家人を組織し直して京の警備・朝廷の監視・軍事行動などを行わせた。これが六波羅探題の始まり」である。
小笠原長径と北条時房は、血気盛んな若いとき、遊び仲間であり、政治的な議論をもした気心が知れた仲間です。北条時房の南・「六波羅探題」に、おそらくは頻繁に出入りしたのでしょう。当然「六波羅探題」の基盤・基礎つくりに協力を惜しまなかっただろうことが想像できます。小笠原長径が「六波羅探題」評定衆に名前が載っていることからも、時房との関係が悪かったなどとは到底考えられません。おそらく、松尾小笠原家と「六波羅探題」の関係はここから始まったと思われます。ただ、北条時房と小笠原長径との京都での関係を示す資料が見つかりません。状況証拠のみです。したがって、この部分は論文としては成立しません。

小笠原長清が承久の乱で、東山道軍の大将として京都に攻め上がり、複数の戦功をあげ、褒賞を受けて同行した子息を各地の地頭にしました。伴野家、大井家、阿波小笠原家、松尾小笠原家、そして甲斐の長清の出身地にも子息を宛がいました。この中で、阿波小笠原家が一番の大身です。ここに名前が刻まれているのは、公には小笠原長房ですが、その過程はかなり複雑に変遷しています。阿波小笠原家成立時点では、長房は元服前の幼少(8歳)です。長房は、小笠原長清の孫で、長忠の弟です。そして「承久の乱の東山道軍」には、長忠は参軍したが、長房は幼少のため参軍しておりません。まず、阿波国守護には、まず長清がなり、長径に引き継がれ、長忠がなるという筋書きが出来上がっていたものと思われます。しかし長忠が信濃・松尾へ帰ることを希望したため、時を稼ぎながら長忠の弟の長房を急遽、長清の養子に仕立てて、阿波国守護にしたという経緯が見えてきます。この経緯とその後の長清の子息の配置を読むと、小笠原長清は、長男・長径を一番信頼しており、長清⇒松尾・小笠原長径以下の系流が長清の後継(本流)だろうとという痕跡が見え隠れしています。・・・ということを、付け加えておきます。

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上記については、質問に対しての回答として書きました。
前後して、図書館に頼んでおいいた{中世関東武士の研究18巻の「信濃小笠原氏」」が届いていました。ざっと目を通した段階では、記述のように、拙論の方が詳しいだけでほぼ差異がないと思えます。
ただ違う部分、長径から貞宗までの小笠原の拠点が”甲斐”だとしているところは納得がいきません。小笠原長忠が松尾長忠と呼ばれていたことや、貞宗が松尾生まれだとするような、群書類従や吾妻鑑を否定することになります。このことの方が通説ですから、否定するなら否定するだけの根拠が必要と思われます。荒読みなので見落としがあったなら謝りますが、「木を見て森を見ず」ではないでしょうか。


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