探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

松尾小笠原宗家の創立まで  第九話

2016-04-18 20:26:40 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで  第九話

:だいぶ休んでいましたが再開します。ただし、このシリーズは今回で終了になります。:

ここでは、小笠原家の初期の信濃における、とりわけ南信濃での”ポジショニング”を明確にする作業をしてみたいと思う。
 ・まず初期の定義だが、七代貞宗は「信濃守護」として各種古書に記述が多いことから、曖昧な期間、長径(初代長清の子)長忠、長政、長氏、長宗(貞宗の前代・父)までとする。
 ・1:この間の経済的基盤の地頭などの背景、
 ・2:この間の地方自治としての税務・警察機能、
 ・3:この間の隣接国への治安軍事の機能、
 ・4:この間の幕府との関係性、
    ・・・特に、幕府との関係性は、長宗・貞宗をもって鎌倉幕府との関係を清算し、貞宗をもって、室町幕府との関係を創出する。この関係は、足利尊氏との”盟友”の関係として特筆される。
 ・5:その他。この間が”曖昧”なのは、記述されている事跡がかなり乏しいからで研究がされなかったわけではない。
 
小笠原家の南信濃への痕跡の最初は、小笠原長清の”伴野荘園”地頭ととしての登場である。この件については、一部に、佐久伴野庄の説があるが、前述で、伊那・伴野庄(現・豊丘村)と断定している。繰り返すが、佐久伴野庄と小笠原家との関係は、承久の乱の以後の”褒賞”によって、小笠原家の別家・伴野家が佐久・伴野庄に移り住んだことから始まる。

次に、南信濃に小笠原家が痕跡を残しているのは、小笠原長径と長忠である。小笠原長忠(長径の長子)は、南信濃・伊那松尾館で生まれたという記録が残る。

・・・「・嫡男。母武田大膳太夫朝信女。
 ・土御門院御宇建仁二壬戌四月二十六生於信州伊那松尾館。童名豊松丸。」・・・
   *・武田大膳太夫朝信は、鎌倉期初期の甲斐武田家の当主・武田信政の弟と見られる
   *・武田大膳太夫朝信女は、小笠原長径の室。長忠の母。
   *・・小笠原長義は、母・武田朝信女。長忠の弟。号下条四郎。修理亮。下條家の祖。・・・
 ・建仁二年(1202)鎌倉幕府将軍は源頼家。

ここから読み取れるのは、小笠原長径が、既に南信濃・松尾付近に地頭として存在し、併せて南信濃の伴野庄の地頭としてあった事実とそこから鎌倉幕府に出仕して奉公し、源頼家の側近として仕えていたと言うことである。この場合、松尾館には室・武田朝信女がおり、奉公先・鎌倉府には家女房(=妾)がいたという事実があり、それぞれ子をもうけていたということである。
小笠原長径が、「比企の乱」に連座して、源頼家の側近から放逐されたとき、当然隠棲した場所は、南信濃・松尾館であった。

小笠原長径が、「比企の乱」に連座して公職追放等の「お咎め」とは一体どんな内容であったか、気になるところである。源頼家の近習五人衆は、「小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成、北条時房」の五人である。当然、比企一族の「比企宗員、比企時員」は誅されている。北条時房は、「比企の乱」に勝利した北条時政の子。「小笠原長経、中野能成」は、甲斐・信濃源氏の有力武将。そして、北条時房と小笠原長経は蹴鞠仲間で仲がいい。

後日、それも最近になって、『市河文書』が解明されて面白い事実が分った。
『吾妻鏡』では能成は頼家に連座して所領を没収され、遠流とされた事になっている
頼家の近習・五人衆の一人・中野能成は、「比企氏滅亡直後の建仁三(1203)年九月四日の日付で、時政から所領安堵を受けており、「比企能員の非法のため、所領を奪い取られたそうだが、とくに特別待遇を与える」という書状が残っており、幕府公式発表の『吾妻鏡』とは、実際の処遇が違うことが明らかにされた。
・類推すれば、小笠原長経への「お咎め」も同様であっただろうと思われる。
・北条時政・政子の甲斐・信濃源氏に対する配慮からなのか、小笠原長径の友人である北条時房が影で動いて助命したのかは定かではないが、比企一族に対するものとは明らかに違いが見られる。
・この部分については、あえて「類推すれば」、と断っているのは、この件に関する小笠原長径にかかわる資料が欠落しているからである。

頼家が病床についた際に、日本国総守護職と関東28か国の地頭職を頼家の長子一幡に下され、その後北条時政に委ねられた。
伊賀良荘は平安期には「尊勝寺領」となっていたが、鎌倉幕府の成立とともに、幕府のもとへ、そして北条時政が地頭になった。信濃国は、その関東御領国になったわけである。(*尊勝寺はへ平安末期の京都の祈願寺であるが現存しない。)
関東御領国・伊賀良荘の地頭ならびに信濃守護は、鎌倉幕府の執権・北条時政がなったわけだが、この鎌倉幕府の経済的地盤は当然ながら北条時政は名目であり、直接に統治した形跡は見つからない。当時の習慣であろうが代行が行われたのであろう。

ここであらためて「群書類従」の松尾小笠原一族の当主の役職を確認してみると、
 小笠原長径
 小笠原長忠
 小笠原長政
 小笠原長氏
 小笠原長宗
 小笠原貞宗
いずれも、「信濃守。信濃国守護。」の役職がある。「参州之管領」はあったりなかったり。
「信濃守」の役職の役割は、特定ができないが、「信濃国守護」は、本来は「信濃国守護代」ではななっただろうか、と推定する。
現地に赴かない名目の「信濃守護」の北条時政に代わり、税金の取立てと治安維持の警察機能を、小笠原長径以下貞宗の時代まで続けて、南信濃に君臨したのではないか。
「参州之管領。」については、参州(=三河)に”治安波乱”が起こった場合の平定責任の限定範囲を管領という役職で規定していたのではないか。
これらの軍事力の環境的裏づけは、大規模荘園の地頭でもないのに,南信濃ならびに信濃国で軍事的に優位に立ち、さらに京都の治安維持に、六波羅探題の信濃武士を束ねていたという「優位性」は、幕府からの警察権力の付与がなかったら考えにくいのである。(*・【一分地頭】鎌倉時代、地頭職の分割相続によってその一部分を持つ地頭。)
伊賀良庄の歴史を追っかけてみると、「吾妻鏡の文治4年によれば、最初は北条時政が地頭と推定され、弘安年間(1278~1288)には江馬光時が地頭代として四条金吾頼基を派遣し、四条頼基は殿岡に住んでいた。嘉暦4年(1329)には江馬遠江前司、江馬越前前司が見え、貞和2年(1346)には江間尼浄元が伊賀良中村を開善寺に寄進している。」建武の新政で北条氏が滅びて、ようやく伊賀良荘園の全域が、小笠原貞宗の手に渡った。開善寺もやがて「小笠原家」の菩提寺になる。
江間氏と小笠原氏の関係は、小笠原氏が軍事力を背景に、強奪や侵略をしたという記録はない。それどころか、小笠原一族の一部は、江間氏と婚姻関係を結んでいるところを見ると良好である。
それまでは、小笠原長径から長宗までの経済的基盤は、伊賀良庄の一分地頭として”松尾(島田)”に存在し、伊賀良庄から上がる税収入の一部も自由に使える立場だったのではないだろうか。
・南信濃・伴野荘園については、承久の乱まで、小笠原長清が所有していたが、承久の乱で、長清・長径の東山道軍に参軍した知久氏が戦功を挙げたので、褒賞として伴野庄を与えられ、その後伊具氏
(北条一族)が地頭として登場したとみるのが合理的である。

小笠原長径以下貞宗の時代までの松尾小笠原家の動向を探ってみる。
松尾小笠原家の当主の室・正妻だが、
 小笠原長径 武田大膳太夫朝信女 武田朝信・甲斐武田家の当主の弟
 小笠原長忠 片桐蔵人太夫為基女 片桐為基・伊那片桐郷の豪族
 小笠原長政 村上兵部国忠女 村上国忠・信濃・東信の豪族
 小笠原長氏 伴野出羽守長房女 伴野長房・信濃・佐久の豪族
 小笠原長宗 中原経行女 不詳:京在住か?一族の赤沢氏女説もある
 小笠原貞宗 藤原光義女 不詳:京在住か?
と、長氏以降が信濃国と関係性を見出せなくなり、京都の女性と思しきが室として登場する。

これは、霜月騒動で、小笠原宗家が、佐久・伴野家の没落により、小笠原長氏の時松尾・小笠原家に移り、幕府から「領土安堵と権限・役職」の確実なものをもらい、代わりに”奉公”の義務を負ったと考えられる。奉公の内容だが、長忠の弟・長房が阿波国守護で、京都検非違使を兼ねていたが手薄だったため、その補強の任が長氏以降に回ってきたと思われる。
このようにして、松尾小笠原家は、京都にも居館をもち、「礼法的伝」の儀礼の祖としても伝播して影響力を拡大したものと思われる。いわゆる二重生活。

以上は、傍証、役職からの関係性、その後との論理性などから”浮き上がらせた”松尾小笠原宗家の存立時期にかかわるポジショニングでした。前述でも繰り返したように、直接の裏づけの文献等があるわけではありませんが論理矛盾はほぼない、筋道であろうかと思っています。
異論・反論などがある場合は、具体的に資料などを指摘していただき、ご意見をお寄せください。

小笠原家中興の祖、貞宗以降は記述されたものも多く、本筋について異論はありません。
従って、今のところ書く予定はありません。
 


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (通りすがり)
2016-05-29 02:33:55
一つご質問なのですが、戎光祥出版さんから出ているシリーズ・中世関東武士の研究18巻の「信濃小笠原氏」における小笠原氏の解説を行った総論(筆者は編者である花岡康隆氏)では、小笠原長政は六波羅探題の評定衆であったことから、霜月騒動後に長政の子で在京御家人であった長氏が惣領に選ばれたという見解を提示されています(P15-16)。が、そのあたりはどうお考えなのでしょうか?
返信する
RE:小笠原長政 (押田庄次郎)
2016-05-30 11:22:41
「通りすがり」さん、こんにちわ!
当ブログに立ち寄っていただき、ありがとうございます。

質問の件ですが、正直言って花岡康隆氏の本は読んでいません。
したがって、見解について、あれこれ言うことは差し控えます。
機会があれば、目を通してみます。

この頃の豪族の動向は、基本は”吾妻鑑”によるところが大きいのですが、
 ・大きな事件や流れはほぼ間違いないと思うのですが、
 ・この筆者は、”前北条”側に立った立場を堅持していて、
 ・反対勢力に対しては偏見が見られるようです。
補完する資料は群書類従で、立場は公正と見受けらるのですが、
 ・なにせ書かれたのが500年以上たった江戸時代で、
 ・伝承、又聞きなどで若干精度に欠き、
 --- どちらも一長一短あり、と思っています。
 
いい機会なので、「六波羅探題と小笠原家」を調べなおしてから、
ブログにアップしようと思っています。

追伸:挨拶ではなく、切り込んだ質問なので、ネーム記入を希望します。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。