限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第175回目)『グローバルリテラシー・リベラルアーツ・教養(その6)』

2012-08-12 11:08:09 | 日記
前々回では日本の伝統的な教養主義に対する私の批判的見解を述べた。つまり、従来は教養を『修養』と規定し、品性を高める手段として教養を位置づけた。教養主義の持つ堅苦しさの一因は、古典を聖典視するところにあったのではないかと私は考えている。古典も一つの情報源と見て、自分自身の視点から古典の内容を吟味し、取捨選択することが、リベラルアーツの観点から古典を学ぶ態度である、と考える。しかし、このことは古典も現在の本と変わる所はない、ということを意味しない。古典というのはやはりそれなりの価値のある書物である。私の考える古典の価値は次の2点に
 【1】当時の価値観で書かれている。
 【2】時代を超越して通用する人生観、価値観が分かる。


先ず、当時の価値観で書かれている本を読む価値について述べよう。

同じ現象でも文化背景の異なると評価が異なる事は現代でもしばしば経験する。文化は時代と共に変わるのであるから、たとえ現時点で正しいと考えられていることでも次世代でも同じ評価が下されるとは限らない。つまり物事の絶対的な評価は難しい。逆に、物事を現在通用している価値観で評価するというのは、極めて危ういと言える。喩えていえば、片目で見ると距離はつかめないが、両目で見ると正しく分かるのと同様、物事も現代の価値観という一面からだけでは正しく判断できない。過去の価値観という視点も加え、物事を立体視することで、初めて正しい判断ができる、と私は考える。この意味で、現代の我々と異なる価値観を知ることは非常に意義がある。ついでに言うと、『異なる価値観を知る』という意味では、外国人の旅行記も非常に有益である。日本および日本人について理解しようと思えば、室町時代以降、とりわけ江戸期に訪日した数多くの欧米人の記録を読むことをお勧めしたい。日本文化の本質が鮮やかな形で把捉され提示されていることに驚くことであろう。

【参照ブログ】
 想溢筆翔:(第40回目)『歴史の壮大な三角測量』
 沂風詠録:(第58回目)『国際人のグローバル・リテラシーの図書リスト(2)』
 【2011年度授業】『国際人のグローバル・リテラシー(7)』

次に、時代を超越して通用する人生観、価値観を知る重要性について述べよう。

我々は得てして世の中の全てのことは時代と共に進歩しているように思ってしまうが、それは錯覚に過ぎない。例えば芸術を考えてみよう。書道では今なお千数百年前の王義之や初唐の三大家である虞世南、欧陽詢、褚遂良の書が最高峰とみなされている。つまりこの千数百年もの間、誰も彼らを凌駕することができないでいるのだ。西洋のクラシック音楽ではバッハ、モーツァルト、ベートーベンなどが楽聖として不動の地位を保っている。彫刻は今でも2000年以上前のギリシャ彫刻に最高傑作が見出される。つまり、美の観念は人類共通であるので、民族だけでなく時代を超越して芸術作品の真価が定められる。美だけでなく、人生観や価値観も民族や時代を超越して、今なお我々の心に響くものが古典として読み継がれている。古典を読むことで初めて我々は過去にも現代にも共に通用する人生観、価値観、すなわち人間というものの本質を知ることができるのだと私は考えている。

これらの2点(【1】【2】)は、理屈の上では一見相反するように思えるかもしれない。しかし、実際に古典を読んでみると、これら2点が渾然となって織りこまれて、不思議な魅力となり人を惹き付けることに気がつく。



さて、ここまでリベラルアーツの重要性に述べてきた。

しかし私は正直なところ誰もがリベラルアーツを学ぶべきとは考えていない。『えっ、ちょっと待った。そんなの裏切りだ!』と思われるかもしれないが、現実問題としてリベラルアーツを学ぶには、時間的にも精神的にもかなりの覚悟がないと続かない。残業や家庭サービスで自分の時間がほとんどとれない一般的なビジネスパーソンにとって、資格試験と違って最終ゴールや成果が見えづらいリベラルアーツを学ぶことは中途で挫折しやすい。私も、自分自身のビジネスマンとしての体験から困難さを実感している。しかし、それでもなお、私がリベラルアーツが必要だと主張するのは次の2つの理由からだ。
 【A】リベラルアーツはリーダーを鍛えるもの
 【B】リベラルアーツは、まさかの時に備える保険のようなもの


最初の『リベラルアーツはリーダーを鍛える』について説明しよう。

現在の日本は、1990年からの失われた10年以降、悲観論が世の中を覆っている。しかし、実体経済をみれば、発展途上国のような勢いはないものの日本はまだまだ世界の優等生であることは間違いない。その理由は国民全体の質が高いからだ。昨年の東日本大震災後の避難民の秩序だった行動がメディアによって世界全体に報道された。その姿をテレビで見た世界中の人々は日本人に敬服の念を抱いたという。日本の民度が高いにもかかわらず国際的な競争で日本企業がもたついているのはどういう訳であろうか?私はその理由は、リーダーの質が低いからだと思っている。ここでいうリーダーとは、国、地方、官、学、民、いづれの職場においても指導すべき立場にある人間、つまり国民の上位5%の人達のことだ。国、あるいは個々の企業、が栄えるには、まずはリーダーがしっかりしていなければならない。確信をもって言えないが、報道されている情報から判断するかぎり、日産やJAL(日本航空)の業績回復はリーダーの資質による所が多いと感じる。

結局、現在の日本では、平均的な国民の知的、倫理的レベルは世界的にみて非常に高いにも拘らず、リーダーの質が低いので、全体として力を発揮できずにいるというのが実態である。この意味では国力回復には上位5%のリーダー層を鍛えなければいけない、と言うのが私の考えである。

次に『リベラルアーツは保険』について説明しよう。

保険の本質を考えてみよう。例えば自動車保険とは事故を起こした場合に支払う多額の賠償金を少ない掛け金でまかなおうとするものだ。理論的に考えて、もし皆が自動車事故を起こすと保険は成り立たない。しかし、実際には、事故を起こす割合は、数パーセントにとどまっているので保険によって掛け金の何倍もの補償金を得ることができるのだ。つまり事故を起こさない数多くの人にとっては保険の掛け金と言うのは全くの無駄金なのだ。無駄金を払うことを承知でもなお保険に加入するというのは、自分が事故を起こすかもしれない、まさかの時に備えるためである。つまり、安心を金で買っているのである。

リベラルアーツを学び、教養を積むというのは全くこのアナロジー(対比)が成り立つ。

リベラルアーツで学ぶ内容は、別に普段の仕事に直結するわけでもないし、資格試験のように勉強したからといって給料の上がる可能性がある訳でもない。さらに具合の悪いことに、どれぐらい理解したかを測る目安となるテストもないので、自分はいったいどの程度進歩したのだろうか、また、あとどれぐらいすればよいのだろうか、が皆目分からない。まるで大海を小さいボートで漂っているような心境に陥る。その上、学んだことがいつ、どのような状況で、どう役立つのかも分からない。このような不安の状態が続くのがリベラルアーツの学習である。しかし、人生のいつかの段階でリベラルアーツを必要とする時がくるが、事故を起こしてから自動車保険に加入をしたいと思っても手遅れなのと同様、リベラルアーツを必要とする場面に遭遇してからリベラルアーツの知識を得たいと思ってももう遅いのだ。

ただ、自動車保険の場合掛け金はたいていは天引きなので全く意識をすることなく事故の場合に備えることはできるが、リベラルアーツの場合はそうではない。常に、先の見通しもつかない焦燥感を抱きつつ、自分の貴重な自由時間を割き、学び続けるしかない。それも数か月や1、2年と言った短期間ではなく、5年あるいは 10年という長期スパン相当の覚悟をもって継続する必要がある。

結局、この2つの観点から私は、日本の将来を担うリーダーはリベラルアーツを学ぶべきだと考えている。本当のリーダーが必要とするのは、単に小手先の技能・知識ではなく、リーダーとしての覚悟、それとリーダーに相応しい器量と識見である。

続く。。。
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想溢筆翔:(第82回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その17)』

2012-08-09 20:17:50 | 日記
 『1.17  能力があっても人望のないリーダーの哀れな結末』

項羽と劉邦、この2人の人物の対比を日本流に直せば織田信長と徳川家康となろう。方や率先型の闘将、方や人望型の武将だ。日中とも闘将タイプが非命に斃れてしまった。当然のことながら、歴史的事件は時代背景が一定ではないので定式化は難しいがこの二例から仮に法則を導くとすれば、それは人望のある者が生き延び、腕力に頼る者は滅びるということにでもなろうか。

この仮法則に合致する例を資治通鑑から拾ってみよう。

唐末の混乱の時代、いわゆる五代十国の時代の英雄の一人に李克用がいる。彼は漢人ではなく、遊牧の民、突厥の出身であった。李克用に限らず遊牧民出身の首領たちは皆、信頼できる武人を養子(仮子という)とし、自分の姓を名乗らせた。李存孝もその一人で、李克用の配下では武力ナンバーワンと言われ活躍していた。しかし、同じく仮子の一人である李存信との仲が悪く、李克用に告げ口されたのではないかと邪推し、誅殺されることを恐れた。そこで、李克用の最大のライバルである朱全忠の下に走った。それを聞いた李克用は大いに怒り、李存孝の拠点である邢州城を攻めた。

 ***************************
資治通鑑(中華書局):巻259・唐紀75(P.8453)

邢州城中では食糧がつきた。それで、李存孝は城壁に登り李克用に呼びかけてこういった『私は王様のおかげで富貴になることができました。もし告げ口されることがなかったらどうして親子の縁を切って仇讎に組みしたでしょうか?弁明の余地を頂ければ死んでも悔いはありません。』李克用は夫人の劉氏を李存孝に送って、劉夫人は李存孝を連れて帰ってきた。李存孝は顔に泥を塗って反省の意を表し、謝罪してこう言った。『私はちょっとした手柄を立てたせいで、李存信に嫉妬されて、この様な、ていたらくな有様になってしまいました。』それを聞いた李克用は李存孝を叱ってこういった。『貴様は朱全忠や王鎔に手紙を送ってわしのことをさんざんにけなしたではないか。それも李存信に教わったとでも言うのか!』李克用は李存孝を縛って晋陽に連れてかえり、軍門の所で車裂きの刑に処した。李存孝の猛将ぶりは軍中に並ぶものが無かった。戦いになるといつも騎兵を率いて先鋒をつとめ、向かう所敵なし(所向無敵)であった。ずっしりと重い鎧をまとい、腰には弓、足には鉾を結んでいた。鉄の鞭を振り回し敵陣を一人で陥れるので、だれもが辟易していた。出陣のつど馬を二頭つれていき、馬が疲れると陣中の元気な馬と交換した。その行動は飛ぶが如く素早かった。李存孝はこのように有能な武将であるので、李克用は殺すのをためらっていた。そして、処刑をする直前には部下の誰かが李存孝の為に命請いをするだろうと期待していた。そうしたら、それを口実に釈放しようと考えていたのだ。ところが、だれもが李存孝の才能を妬んでいたので、ついに誰一人として助命を言い出さなかった。

邢州城中食盡,甲申,李存孝登城謂李克用曰:「兒蒙王恩得富貴,苟非困於讒慝,安肯捨父子而從仇讎乎!願一見王,死不恨!」克用使劉夫人視之。夫人引存孝出見克用,存孝泥首謝罪曰:「兒粗立微勞,存信逼兒,失圖至此!」克用叱之曰:「汝遺朱全忠、王鎔書,毀我萬端,亦存信教汝乎!」囚之,歸於晉陽,車裂於牙門。存孝驍勇,克用軍中皆莫及;常將騎兵爲先鋒,所向無敵,身被重鎧,腰弓髀槊,獨舞鐵檛陷陳,萬人辟易。毎以二馬自隨,馬稍乏,就陣中易之,出入如飛。克用惜其才,意臨刑諸將必爲之請,因而釋之。既而諸將疾其能,竟無一人言者。

邢州城中、食尽く,甲申,李存孝、城に登りて李克用にいいて曰く:「児、王の恩を蒙り、富貴を得たり。苟しくも讒慝に困るにあらざれば,安ぞ肯えて父子を捨て、仇讎に従わにや!願くは、一たび王にまみゆれば,死すとも恨みず!」克用、劉夫人をして視しむ。夫人、存孝を引き出し克用に見せしむ。,存孝、首に泥し、罪を謝して曰く:「児、粗にして微労を立つ。存信、児に逼り,図を失いてここに至れり!」克用、これを叱って曰く:「汝、朱全忠、王鎔に書を遺し,我を毀つこと万端,また存信、汝に教しや!」これを囚え,晋陽に帰り,牙門に車裂す。存孝の驍勇,克用の軍中、みな及ぶなし;常に騎兵に将として先鋒をなし向かう所、敵なし。身に重き鎧を被り,腰に弓、髀に槊。独り鉄檛を舞い陳を陥れる。万人、辟易す。つねに二馬をもって自ら随う,馬の稍乏するや,陣中に就いてこれを易う。出入すること飛ぶが如し。克用、その才を惜む。意えらく、刑に臨むに諸将、必ずこれが為めに請う,因りてこれを釈さんと。既にして諸将、その能を疾み,ついに一人も言うものなし。
 ***************************

李克用としては、李存孝は確かに反乱を企てた犯罪者ではあったが、将軍としての才能は自分の部下の中では随一なので、どうにかして助けてあげたいと考えていた。しかし、口実もなく赦す訳にはいかないので、車裂するぞ、と宣言しておいて、部下の将の誰かが止めに入ってくれるのを期待していた。ところが、李存孝の普段からの傲慢な言動は諸将の癪に障っていたので、誰もが李存孝が殺されることを望んでいた。それで、結局は李克用も仕方なく李存孝を処刑をせざるを得なくなった。李存孝の人望の無さが自ら招いた結末であった。

ただ、李存孝を殺したことはすぐさま、李克用の戦力低下となって現れ、結局その後、李克用は朱全忠に圧倒されてしまった。胡三省の注には『克用自翦羽翼』(克用、自ら羽翼をきる)という史官の言葉を載せる。



李存孝のような武官だけでなく、文官でも人望のないリーダーの結末を見てみよう。

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資治通鑑(中華書局):巻279・後唐紀8(P.9125)

大臣(左僕射、門下侍郎、同平章事)の李愚がクビになり、本官に落とされた。同じく、大臣(吏部尚書兼門下侍郎、同平章事、判三司)の劉昫もクビになり右僕射に落とされた。官邸の役人たちはこれを聞いて喜んだ。辞任の日に劉昫を自宅までお供をする者はいなかった。

戊寅,左僕射、門下侍郎、同平章事李愚罷守本官,吏部尚書兼門下侍郎、同平章事、判三司劉昫罷爲右僕射。三司吏聞 昫罷相,皆相賀,無一人從歸第者。

戊寅,左僕射、門下侍郎、同平章事、李愚、罷め本官を守る。吏部尚書兼門下侍郎、同平章事、判三司、劉昫、罷め右僕射となる。三司吏、昫の相を罷めると聞き,皆、あい賀す,一人として第に帰に従うもの者なし。
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さて、司馬光はこの文を何のためにわざわざと資治通鑑に入れられたのであろうか、と疑問に思わないであろうか?この文は単に大臣が2人クビになったという話でしかない、と思われるかもしれない。しかし、この文の真意は胡三省の注によって判明する。

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資治通鑑(中華書局):巻279・後唐紀8(P.9125)

劉昫はかつて、庶民が滞納した税金を帳消しにすることを提案した。これによって吏(下級役人)たちは、無茶な取り立てで甘い汁が吸えなくなった。

以昫奏蠲諸道逋租,吏無所並縁徴責以漁利也。

昫の諸道の逋租を蠲せんことを奏すをもって、吏、並縁、徴責し、もって利を漁るところなし。
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つまり、劉昫は以前から胥吏(ノンキャリアの下級役人)達が税を滞納している庶民からあくどく滞納金を取り立てていることに憤っていた。それで、行政長官に任じられた時に、徳政令を出して滞納金を帳消しにし、庶民を苦しめていた根源を一挙に断ち切った。当然のことながら、庶民の多くははこれによって救われ喜んだ。しかし、逆に胥吏たちはせっかくの強請(ゆすり)の口実がなくなってしまい大いに怒っていた。

ところで、中国の政治はあたかも科挙に合格した進士たち、つまり士大夫が切り回していたように錯覚している人が多い。しかし実態は士大夫というのは、日本の官庁のキャリア組と同様、数年単位で部署を異動するため実務については知らない。一方、ノンキャリア組の胥吏たちは地元出身で親子代々、職を世襲し、実務の表裏を熟知している。そうして、胥吏たちは官吏という立場を利用して、当然のことのように法を無視し、庶民の無知につけこんでは甘い汁を吸うことばかり考えていた。士大夫は彼らの協力なしには政治を行うことはできないので、胥吏たちの悪行については、見て見ぬふりをするか、あるいはグルになって庶民をむしり取るかのいづれかであった。ここで取り上げた劉昫のような正義感がつよく勇気ある行動をとる士大夫は極めて数少なかったのが実情である。

こういった背景を理解することで、はじめて司馬光がこの文を資治通鑑に入れた意図が理解できる。そして胡三省の注によってその意図が私には、誤解なく理解できた。

上で述べた士大夫と胥吏の関係を考える上で参考となる文がある。それは、『孔子家語』の中(第21・入官)の一節だ。
 『水至清則無魚、人至察則無徒』(水、至って清かならば則ち魚なし、人、至って察ならば則ち徒なし)

この句は、『あまりにも清廉すぎると仲間ができないので、少しぐらいの不正は大目にみないといけない』という中国風処世術の極意を教えているのだ。つまり、士大夫が見習うべきは、劉昫のような剛直さではなく、韓愈の『柳巷』という詩に見える、我関せず焉、の退嬰的な態度だと言っているように私には思える。
韓愈・柳巷  
 柳巷還飛絮 柳巷、還(ま)た絮を飛ばす
 春餘幾許時 春余、いくばくぞ
 吏人休報事 吏人、事を報ずるをやめよ
 公作送春詩 公、春を送るの詩をつくらんとす。


(大意:ぽかぽか陽気の春だ。このすばらしい春ももうすぐおわりだ。ひとつ立派な詩を作ろうと思う。小役人たちよ、詩想の邪魔になるので、雑務は報告するな。)

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』
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沂風詠録:(第174回目)『グローバルリテラシー・リベラルアーツ・教養(その5)』

2012-08-05 17:34:27 | 日記
前回は、教養は修養にあらず、と主張した。それは修養を目的として教養を積むいうことを非難したのであって、教養を積んでいくことが品性の向上に寄与することもあることを否定はしていない。

その理由を説明しよう。

私は以前から漢文を読むべし、と勧めているが
 『漢文の中の文章には、人としての生き方を教えてくれる貴重なものが多い』
というのがその理由の一つであることは縷々述べたところである。生き方を教えてくれる漢文の文章は、特に史記を始めとした史書に多い。(現在連載している『資治通鑑に学ぶリーダーシップ』はその一例)史書では、事件にかかわる人達の説明があり、事件の背景が記述される。そして最後にその人達がどうなったかが記述されている。結末はハッピーエンドのこともあれば、理不尽で悲惨な運命で命を落とすこともある。いずれの場合も歴史の一事象としてそのまま受け入れるしかないが、論理的には別の結末も当然考えられる。悲惨な結末の場合、何故そういうふうになったのか、というより、何故その結末を回避できなかったのか、と考えさせられる。歴史は "Why" のみならず、"Why Not" を説明してはくれない。ギリシャ悲劇の貫通するテーマは『人間の傲慢』(hubris)と言われるが、歴史上の事件を考えることで、『人間の傲慢』がどういう結末をもたらすかが納得できるようになる。

一方では、歴史上の人物の生きざまに共感を覚えることがある。彼らの生きざまを知ることで、無意識のうちに持っていた、自分の理想とする生き方が固まってくるのを感じることができる。この意味で私は、特定の哲学や宗教の教義から自分の生き方を決めるやり方には賛同しない。教義が先にあるのではいけないのだ。そうではなく、過去の幾多の人々の言行の中から自分のロールモデルとなるべき人を見つけ、そこから自分の哲学や宗教観を作り上げていくべきだと私は考える。つまり、数学の公式を丸暗記することが必ずしも数学の本質を理解できないように、宗教の教義に形だけ沿った生き方では必ずしも自分の内に確固たる宗教観・人生観は確立できないのだ。

結局、歴史というのは政治体制の変遷を知るためではなく、生き方のケーススタディを学ぶためのものであると私は考える。この意味では、中国の史書だけでなく西洋の歴史書にも学ぶ所は多い。私が読んで自分の人生を考える指針となった本として、ヘロドトス、プルターク、リヴィウス、スウェトニウスなどを挙げておきたい。

【参照ブログ】
 【座右之銘・45】『謂學不暇者、雖暇亦不能學矣』
 【2011年度・英語授業】『日本の情報文化と社会(8)』



私が言いたいのは、『教養』を自分のものにしようとした場合、意味不明な『学術・芸術による品性の向上』や『修養』という題目振り回されず、最終到着点である
 『多様な分野の横断的な理解を通して、世界の各文化の核(コア)となる概念をしっかりと把握すること』
を目指すべきだ、と言うことである。

ところで、漢文のような古典と言われている本を読むときの心がけについて一言述べておきたい。

古典というのは、幾世紀にもわたって読み継がれている本をさすが、世の中には古典というとあたかも神聖にして犯さざるべからずの本であるかのように錯覚している人が往々にしている。例えば、キリスト教の聖書やコーランはいうまでもなく、論語、古事記などにおいても読み方や語句の解釈は古来からのものを厳密に守らなければいけないように考えている。さらには、それを書いた人たちも、現代人よりはるかに優れている人たち(つまり聖人)であるかのように思い込んでいる。

私は、古典をこのように神聖視することは間違っていると考えている。

聖人と言われている人たちにも人間的欠陥があって、時と場合によっては、心にもないことや、わざと反発した意見を吐いたはずだと思っている。例えば、孔子は中国においてはこの2000年間、ずっと聖人として崇められてきた。彼の言ったこと、行ったことはあたかも全て合理的であり、正当であったかのごとく思われている。しかし、冷静になって論語を読むと、孔子もまた普通の感情をもった人間であることがわかる。普通人が犯すような間違いもする人たちが書いた本であるから、当然の事ながら正しくない文も交じっていて当然である。古典を神聖視し、批判的態度を自ら否定するのは、自由人たるべき人が目指すリベラルアーツではない。孟子の言う『盡信書、則不如無書』(尽く書を信ずれば則ち書なきに如かず)の趣旨だ。

【参照ブログ】
 想溢筆翔:(第43回目)『40年前のあの時に戻れたら...』
 【座右之銘・20】『盡信書、則不如無書』

更にいえば、古典だけでなく、過去の人物をその実態以上に評価することに対しても私は釘をさしておきたい。

例えば、幕末の志士の一人、吉田松陰に対する評価は依然として高いが、徳富蘇峰が言うように吉田松陰は『真誠の人』としては優れてはいるとは思うものの、その識見においては見るべきものは少ない。例えば彼の著書の一つに、『講孟箚記』(別名:講孟余話)という本があるが、別段、目を見張るような彼独自の解釈がなされている訳でもなければ、深い人生観が展開されている訳でもない。いくら早熟とはいえ、彼は当時、まだ30歳前の社会経験が未熟な若者であったから、それは当然とも言える。松陰の弟子たちが明治維新において大きな活躍をしたことと、我々が松陰の残した書きものから得るべきことをきっちりと区別すべきだと私は考える。

意外に思われるかもしれないが、尚古主義を標榜する儒教においてすら、過去の人物の過大評価について戒める考えがあった。孔子は民間の伝承をベースにして架空の人物、尭舜を聖人と崇めその時代を理想郷とする幻想を積極的に広めた。しかし、孔子の一番弟子の顏淵はそうした孔子の態度にたいして内心反発を感じていたようだ。孟子の『滕文公章句・上』には顏淵の『舜何人也?予何人也?有爲者亦若是。』(舜、何にびとそや?予(われ)何にびとぞや?為すある者はまたかくの如し。)という言葉が引用されている。つまり顏淵は、聖人といえども、理想化する必要はない、自分だって努力すれば舜のようになれる、と主張したのだ。

歴史を振り返ればわかるように、宗教にまつわる戦争や紛争は大抵の場合、自派の創立者や教義を絶対視するところに起因する。自分たちは正しい指導者に従い、正しい教義に則っているが、他派はそうではない。そういった邪道の人間は生きる価値がない、よって、そのような人間を殺すことは正しい行為なのだという理屈となる。客観的立場から、それぞれの宗派の創立者の言動を分析すれば、必ずしもいつも正しいとは言えないことが分かるはずだが、いったん教団に加入すると理性的な判断は禁じられ、強制的に思考停止状態にさせられる。オーム事件を持ち出すまでもなく、過去だけでなく現在においてもこのような状態の人たちがいかに多くの悲劇を引き起こしてきたか、枚挙に暇ない。

結局、過去の人を絶対視しない、この姿勢を持つべきだと私は考える。

【参照ブログ】
 百論簇出:(第43回目)『陽明学を実践する前にすべきこと』

続く。。。
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【座右之銘・71】 『Decipi quam diffidere』

2012-08-02 22:15:27 | 日記
文の長い歴史を持つ中国は各時代ごとにその得意とするところが異なる。例えば、紀元前後の400年続いた漢王朝は散文を得意としたので、『漢の文』つまり漢文と言われる。7世紀から300年続いた唐は、李白・杜甫・白居易など詩の巨匠を輩出したので唐詩と言われる。 14世紀からの明は軽妙なエッセーを得意とした。ただ、文章の格調は漢文ほど高くなく、唐詩にみられる煌めきは感じられない。しかし、高踏的な嫌味さは感じられず世故に長けた警句が多いので親しみやすい。

そういった本の一つに菜根譚(さいこんたん)がある。

日本には江戸後期に伝来してから広く読まれたようだ。世間受けする常套手段として、対句が多用されている。対句もあまり過ぎると、甘味が効きすぎたデザートのように嫌気がさすものだが、菜根譚の対句はリズミカルで軽快だ。処世訓的な警句が多い。その内の一つに『人を信用してもいけないし、かといってあまり用心し過ぎるのもいけない』と説く句(前集・130)がある。

人を害するの心は有るべからず。人を防ぐの心は無かるべから。これ慮りを疎んずるを戒しむるものなり。寧ろ人の欺を受くるも、人の詐を逆(むか)う母(なか)れ。これ察に傷(やぶ)るを警むるものなり。
 害人之心不可有,防人之心不可無,此戒疏於慮者。
 寧受人之欺,毋逆人之詐,此警傷於察者。


ここで、驚くのは第二句の『寧受人之欺,毋逆人之詐』という文句である。この句を私なりに解釈をすると:
 『人から欺かれることはよいとしても、あまりにも人を疑うのはダメだ』

つまり、騙されまいと余りにも用心しすぎると、人が好意をもって助言してくれることまで疑って信用しなくなってしまう。そういう狭量な人間になってはいけないとたしなめているのだ。

中国では古来から、日本とは比べものにならない位、悲惨な歴史が繰り返されてきたが、この語にはそういった暗さが感じられない。本当の意味での中国の文人が備えるべき雅量が感じられる言葉だ。



ところで、同じような文句は、ローマの哲人・セネカの『怒りについて』(De ira, 2-24)にも見える。アレキサンダー大王やカエサル(シーザー)の度量の大きさを称えたあとで、
 人のいうことは詮索しない方がよいとしたものだ。なぜなら『疑う位なら欺かれた方がまし』(satius est decipi quam diffidere)だからだ。
 【原文】Saepe ne audiendum quidem est, quoniam in quibusdam rebus satius est decipi quam diffidere.
 【英訳】Often one should not even listen to report, since under some circumstances it is better to be deceived than to be suspicious.
 【独訳】Oft sollte man nicht einmal hinhören, da es ja bei bestimmten Dingen besser ist, getäuscht zu werden, als zu misstrauen.

この文は先ほどの菜根譚の『寧受人之欺,毋逆人之詐』と同じ意味だと理解されよう。これらの文を読んだ日本人の多くは、『やはり世界には自分達と同じ価値観を共有する人が多い』と心強く思うことであろう。

しかしセネカは手離しで、欺かれよ、とは言っていないのだ。というのはこの文の前に、彼は
 『人のいうことを軽々と信じるのは厄を招くもとだ』
 【原文】Plurimum mali credulitas facit.
 【英訳】Credulity is a source of very great mischief.
 【独訳】Das größte Unheil richtet Leichtgläubigkeit an.

と釘を刺している。

振り込め詐欺は日本では横行しているが、中国ではほとんど聞かないと言われる。人の言葉をやすやすと信じるのは、日本人の美点ではあると私も評価はするものの、グローバル社会を生きる処世術としてはこのセネカの言葉を頂門の一針と受け止めておく必要があろう。
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