限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第83回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その18)』

2012-08-16 23:47:18 | 日記
『1.18 リーダーの責務とは何か - 信念と世間評価の乖離を恐れるな。』

以前のブログ、沂風詠録:(第14回目)『道はもとより委蛇たり』で私は中国の儒者の教条主義を批判してこう述べた。
秦末の叔孫通は『大直若詘、道固委蛇(大直は、まがるが如し、道はもとより、いい、たり)』(柔軟にしてこそ初めて大義が成就できる)と喝破し、儒者の頑固さをせせら笑った。それでも、その後 1000年もの間、このような実益(民の厚生)より虚辞(名分)が評価され続けた。どうやら、中国の教養人は、教条主義(rigorism)に陥り易く、その結果、柔軟な発想を否定的に見る傾向が強いと言えそうだ。

中国の歴史には教条派(現代用語では原理主義者)と実務派の対立がしばしば見られる。そして大抵のパターンは教条派が権力を握り、実務派を弾圧するが、少数の実務派がしぶとく生き抜き次第に実力で教条派を圧倒していく、というものだ。最近(と言っても40年ほど前だが)の例では実務派の雄・劉少奇は走資派とのレッテルをはられ狂気の文化大革命の渦中に非業の死を遂げた。しかし劉少奇の同志であった小平は弾圧されるも、文革後に復活を果たし、実権を握るや解放改革路線を推進し今日の中国の発展の礎を築き、劉少奇の汚名を雪いだ。

これからも分かるように、世間の評価というのは、時とともに大きく揺れ動くものだ。従って、我々が人を評価するときは、世間の評価を鵜呑みにせず、まずはその人の言動のデータを集め、前後関係を調査した上で、良い点と悪い点を分けた上で、総合的な判断を下すように心がけなければいけない。そしてリーダーとして心すべきは、自分が信念をもって行動するなら、世間の評価に右往左往すべきではないということだ。

儒者からは極めて低い評価を受けた信念のリーダー・馮道の功績とその評価を見てみよう。

923年に成立した後唐では人材に欠いていた。二代目の明宗が誰を宰相にしたらよいかを臣下に尋ねたが、思うような人が見つからなかった。それで、自分の意見として次のように述べた。

 ***************************
資治通鑑(中華書局):巻275・後唐紀4(P.8999)

明宗が言うには、「宰相というのは重職だ。皆でもっとよく議論して頂きたい。私が河東に居た時に馮道を見たが、多才の上に物知りで、人を押しのけるような所がない。宰相にふさわしいと思う」

上曰:「宰相重任,卿輩更審議之。吾在河東時見馮書記多才博學,與物無競,此可相矣。」

上曰く:「宰相、重任なり,卿輩、更にこれを審議せよ。吾、河東に在るの時、馮書記を見る。多才にして博学。物と競わず,これ相とすべきなり。」
 ***************************

その後、馮道は目まぐるしく興亡を繰り返す国々において政務を握り、無益な殺生を避けようと努力した。しかし、儒者は『忠臣不事二君』(忠臣は二君につかえず)との教条主義から『五朝八姓十一君』につかえた馮道を破廉恥漢とみなした。



馮道の臨終の記述と、儒者(歐陽修、司馬光)の評価を見てみよう。

 ***************************
資治通鑑(中華書局):巻291・後周紀2(P.9510)

太師、中書令で瀛文懿王の馮道が亡くなった。馮道は子供のころから親孝行で慎み深いとして有名であった。後唐の荘宗の時に初めて大官に至ってから、死ぬまでずっと国の政治のトップの地位(将、相、三公、三師)に居た。生活ぶりは至って質素で、また寛大であった。喜怒を顔に出さない人だった。一方でひょうきんな面もあり知恵が豊かで機転が聞いた。常に人の気に入られようとした。かつて自叙伝《長楽老敘》で、自分がどのようにして出世したかを述べた。当時の評価は、徳のある人だということだ。

庚申,太師、中書令瀛文懿王馮道卒。道少以孝謹知名,唐莊宗世始貴顯,自是累朝不離將、相、三公、三師之位,爲人清儉寛弘,人莫測其喜慍,滑稽多智,浮沈取容,嘗著《長樂老敘》,自述累朝榮遇之状,時人往往以徳量推之。

庚申,太師、中書令、瀛文懿王、馮道、卒す。道、少にして孝謹をもって名を知らる。唐の荘宗の世に始めて貴顕たり。これより累朝、将、相、三公、三師の位を離れず。人たるに清倹にして寛弘。人、その喜慍を測るなし。滑稽にして多智、浮沈するも容をとる。かつて《長楽老敘》を著し、自ら累朝の栄遇の状を述ぶ。時人、往往、徳量をもってこれを推す。
 ***************************

まず、臨終に際して、馮道の略歴と当時は徳量ありと、かなりポジティブに評価されていた事実を淡々と述べる。

しかし、これに続く論賛に儒者の痛烈な批判が叩きつけられる。先ずは、名文家で知られる宋代士大夫の支柱というべき欧陽修の批判。

 ***************************
資治通鑑(中華書局):巻291・後周紀2(P.9510)

欧陽修は新五代史の論に次のように述べる。「礼義、廉恥は国の四維(4つの大原則)である。この四維が緩むと、国は滅亡する」礼義というのは政治の根幹である。廉恥は人の大節である。それだから、大臣が廉恥の心を失えば天下が乱れないでいられようか!国家が滅びずにいられようか!私は《長楽老敘》を読んで、馮道が自分の出世を誇っているのは、全く破廉恥も過ぎると言いたい。国のトップの大臣がこうであるから国も落ちていくのだ。

歐陽修論曰:「禮義廉恥,國之四維。四維不張,國乃滅亡。」禮義,治人之大法;廉恥,立人之大節。況爲大臣而無廉恥,天下其有不亂、國家其有不亡者乎!予讀馮道《長樂老敘》,見其自述以爲榮,其可謂無廉恥者矣,則天下國家可從而知也。

欧陽修の論に曰く:「礼義、廉恥は国の四維なり。四維、張らざれば、国なわち滅亡す。」礼義は治人の大法なり。廉恥は人を立つるの大節なり。況わんや、大臣たりて廉恥なし。天下、それ乱れざるあらんや、国家、それ亡びざるあらんや!予、馮道の《長楽老敘》を読み、その自ら述べるに、おもえらく栄なりと。それ廉恥なきものというべきなり。則ち天下国家の従うべきもまた、知るなり。
 ***************************

欧陽修の批判の論点は、馮道に廉恥心がない、という点だ。つまり、彼の業績や政治に対する姿勢を批判しているのではなく、単に自分が仕えた国が滅びた後に、その国を滅ぼした主に仕える、つまり『事二君』という倫理観を批判しているに過ぎない。しかしこれは『忠臣不事二君』(忠臣は二君につかえず)という言葉が絶対的真理であることが前提であるはずだが、欧陽修をはじめとする儒者には、この言葉を疑問視することなど想像すらできないことであった。

次いで、資治通鑑の編者・司馬光の批判を聞こう。

 ***************************
資治通鑑(中華書局):巻291・後周紀2(P.9511)

私、司馬光の意見:
天地には定まった位があり、聖人はこれに従う。制礼に従って法を作る。つまり、家庭内には夫婦の道があり、外には君臣の道がある。妻は一生、夫に従うのものだし、臣下は一たび主君を決めれば他の主君には仕えない。これが人道の大倫というものだ。もしこの定めを無視するなら、これ以上の悪行はない。范質は馮道が徳に厚く教養があり、才能豊かで、威厳があると言ったが、国が滅びるつど、主君を乗りかえていった。たとえ世人が非難しなくても、大山のようにどっしりとして転がるべきではなかったと思う。

臣光曰:天地設位,聖人則之,以制禮立法,内有夫婦,外有君臣。婦之從夫,終身不改;臣之事君,有死無貳。此人道之大倫也。苟或廢之,亂莫大焉!范質稱馮道厚徳稽古,宏才偉量,雖朝代遷貿,人無間言,屹若巨山,不可轉也。

臣・光、曰く:天地、位を設け,聖人、これに則り、制礼もって法を立つ。内に夫婦あり、外に君臣あり。婦の夫に従う,終身、改めず。臣の君に事うるや、死ありても弐せず。これ人道の大倫なり。苟しくも或いはこれを廃さば、乱、大なるはなし!范質、馮道を厚徳、稽古にして、宏才、偉量と称す。朝の代るや遷貿するを人、間言なしと雖も、巨山のごとく屹として転ずべからず。
 ***************************

この批判から、司馬光も欧陽修と全く同じ思考回路を持っていたことが分かる。それどころか、司馬光は馮道を『奸臣のなかの奸臣』(茲乃奸臣之尤)とさらに手厳しく糾弾している。また、馮道は乱世にうまく身を処したとの世間の評価に対して、『身を汚して生きるぐらいなら死んだ方がましだ』(君子、有殺身成仁)とも弾劾する。

私は、博学で多くの書物を読みこんだ馮道であるから、当時の、そして後世の儒者達からこういった批判を受けることはじゅうぶん承知していた、と確信している。それでも自分の名誉よりも幾百万人もの人命と民生とに奮闘した馮道のリーダーとしての大きな識量に私は敬意を抱くものだ。

司馬光や欧陽修に関して言えば、宋名臣言行録や唐宋八家文などを読み、彼らの人柄には尊敬の念を抱いている。一国の大臣職にありながらも質素に暮らすその清廉な政治姿勢に現代にも通じる暖かいヒューマニズムを感じる。しかしそうだからといって彼らの教条的な姿勢に対しては批判せざるを得ない。

これが、先日のブログ、沂風詠録:(第174回目)『グローバルリテラシー・リベラルアーツ・教養(その5)』で述べた、
 結局、過去の人を絶対視しない、この姿勢を持つべきだと私は考える。
の意味するところである。

ところで、同じくこの先日のブログで、吉田松陰には識見において見るべきものは少ない、と述べたが、馮道に対する彼の評価に彼の狭量が露わになっている。

吉田松陰の『講孟箚記』(巻之四下・第31章)に次の文が見える。
 『馮道の如き、五朝八姓に事へ皆、相となるに至る。豈憎まざるべけんや。』
この文はまさに上で述べた宋儒の口上をそっくり真似したものではないか!馮道の事蹟を丹念に調べた上でくだした理性的な評価ではないことは明らかだ。松陰と言えば、命の危険をも顧みずペリーの船に乗って世界を実地に見ようとした程であるから、柔軟な思考を持っていたように思えるが、残念ながら、実際は、儒者としての固定観念に縛られた狭い識見しかもっていなかった。

【参照ブログ】
 【座右之銘・56】『口無不道之言、門無不義之貨』

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする