限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第175回目)『グローバルリテラシー・リベラルアーツ・教養(その6)』

2012-08-12 11:08:09 | 日記
前々回では日本の伝統的な教養主義に対する私の批判的見解を述べた。つまり、従来は教養を『修養』と規定し、品性を高める手段として教養を位置づけた。教養主義の持つ堅苦しさの一因は、古典を聖典視するところにあったのではないかと私は考えている。古典も一つの情報源と見て、自分自身の視点から古典の内容を吟味し、取捨選択することが、リベラルアーツの観点から古典を学ぶ態度である、と考える。しかし、このことは古典も現在の本と変わる所はない、ということを意味しない。古典というのはやはりそれなりの価値のある書物である。私の考える古典の価値は次の2点に
 【1】当時の価値観で書かれている。
 【2】時代を超越して通用する人生観、価値観が分かる。


先ず、当時の価値観で書かれている本を読む価値について述べよう。

同じ現象でも文化背景の異なると評価が異なる事は現代でもしばしば経験する。文化は時代と共に変わるのであるから、たとえ現時点で正しいと考えられていることでも次世代でも同じ評価が下されるとは限らない。つまり物事の絶対的な評価は難しい。逆に、物事を現在通用している価値観で評価するというのは、極めて危ういと言える。喩えていえば、片目で見ると距離はつかめないが、両目で見ると正しく分かるのと同様、物事も現代の価値観という一面からだけでは正しく判断できない。過去の価値観という視点も加え、物事を立体視することで、初めて正しい判断ができる、と私は考える。この意味で、現代の我々と異なる価値観を知ることは非常に意義がある。ついでに言うと、『異なる価値観を知る』という意味では、外国人の旅行記も非常に有益である。日本および日本人について理解しようと思えば、室町時代以降、とりわけ江戸期に訪日した数多くの欧米人の記録を読むことをお勧めしたい。日本文化の本質が鮮やかな形で把捉され提示されていることに驚くことであろう。

【参照ブログ】
 想溢筆翔:(第40回目)『歴史の壮大な三角測量』
 沂風詠録:(第58回目)『国際人のグローバル・リテラシーの図書リスト(2)』
 【2011年度授業】『国際人のグローバル・リテラシー(7)』

次に、時代を超越して通用する人生観、価値観を知る重要性について述べよう。

我々は得てして世の中の全てのことは時代と共に進歩しているように思ってしまうが、それは錯覚に過ぎない。例えば芸術を考えてみよう。書道では今なお千数百年前の王義之や初唐の三大家である虞世南、欧陽詢、褚遂良の書が最高峰とみなされている。つまりこの千数百年もの間、誰も彼らを凌駕することができないでいるのだ。西洋のクラシック音楽ではバッハ、モーツァルト、ベートーベンなどが楽聖として不動の地位を保っている。彫刻は今でも2000年以上前のギリシャ彫刻に最高傑作が見出される。つまり、美の観念は人類共通であるので、民族だけでなく時代を超越して芸術作品の真価が定められる。美だけでなく、人生観や価値観も民族や時代を超越して、今なお我々の心に響くものが古典として読み継がれている。古典を読むことで初めて我々は過去にも現代にも共に通用する人生観、価値観、すなわち人間というものの本質を知ることができるのだと私は考えている。

これらの2点(【1】【2】)は、理屈の上では一見相反するように思えるかもしれない。しかし、実際に古典を読んでみると、これら2点が渾然となって織りこまれて、不思議な魅力となり人を惹き付けることに気がつく。



さて、ここまでリベラルアーツの重要性に述べてきた。

しかし私は正直なところ誰もがリベラルアーツを学ぶべきとは考えていない。『えっ、ちょっと待った。そんなの裏切りだ!』と思われるかもしれないが、現実問題としてリベラルアーツを学ぶには、時間的にも精神的にもかなりの覚悟がないと続かない。残業や家庭サービスで自分の時間がほとんどとれない一般的なビジネスパーソンにとって、資格試験と違って最終ゴールや成果が見えづらいリベラルアーツを学ぶことは中途で挫折しやすい。私も、自分自身のビジネスマンとしての体験から困難さを実感している。しかし、それでもなお、私がリベラルアーツが必要だと主張するのは次の2つの理由からだ。
 【A】リベラルアーツはリーダーを鍛えるもの
 【B】リベラルアーツは、まさかの時に備える保険のようなもの


最初の『リベラルアーツはリーダーを鍛える』について説明しよう。

現在の日本は、1990年からの失われた10年以降、悲観論が世の中を覆っている。しかし、実体経済をみれば、発展途上国のような勢いはないものの日本はまだまだ世界の優等生であることは間違いない。その理由は国民全体の質が高いからだ。昨年の東日本大震災後の避難民の秩序だった行動がメディアによって世界全体に報道された。その姿をテレビで見た世界中の人々は日本人に敬服の念を抱いたという。日本の民度が高いにもかかわらず国際的な競争で日本企業がもたついているのはどういう訳であろうか?私はその理由は、リーダーの質が低いからだと思っている。ここでいうリーダーとは、国、地方、官、学、民、いづれの職場においても指導すべき立場にある人間、つまり国民の上位5%の人達のことだ。国、あるいは個々の企業、が栄えるには、まずはリーダーがしっかりしていなければならない。確信をもって言えないが、報道されている情報から判断するかぎり、日産やJAL(日本航空)の業績回復はリーダーの資質による所が多いと感じる。

結局、現在の日本では、平均的な国民の知的、倫理的レベルは世界的にみて非常に高いにも拘らず、リーダーの質が低いので、全体として力を発揮できずにいるというのが実態である。この意味では国力回復には上位5%のリーダー層を鍛えなければいけない、と言うのが私の考えである。

次に『リベラルアーツは保険』について説明しよう。

保険の本質を考えてみよう。例えば自動車保険とは事故を起こした場合に支払う多額の賠償金を少ない掛け金でまかなおうとするものだ。理論的に考えて、もし皆が自動車事故を起こすと保険は成り立たない。しかし、実際には、事故を起こす割合は、数パーセントにとどまっているので保険によって掛け金の何倍もの補償金を得ることができるのだ。つまり事故を起こさない数多くの人にとっては保険の掛け金と言うのは全くの無駄金なのだ。無駄金を払うことを承知でもなお保険に加入するというのは、自分が事故を起こすかもしれない、まさかの時に備えるためである。つまり、安心を金で買っているのである。

リベラルアーツを学び、教養を積むというのは全くこのアナロジー(対比)が成り立つ。

リベラルアーツで学ぶ内容は、別に普段の仕事に直結するわけでもないし、資格試験のように勉強したからといって給料の上がる可能性がある訳でもない。さらに具合の悪いことに、どれぐらい理解したかを測る目安となるテストもないので、自分はいったいどの程度進歩したのだろうか、また、あとどれぐらいすればよいのだろうか、が皆目分からない。まるで大海を小さいボートで漂っているような心境に陥る。その上、学んだことがいつ、どのような状況で、どう役立つのかも分からない。このような不安の状態が続くのがリベラルアーツの学習である。しかし、人生のいつかの段階でリベラルアーツを必要とする時がくるが、事故を起こしてから自動車保険に加入をしたいと思っても手遅れなのと同様、リベラルアーツを必要とする場面に遭遇してからリベラルアーツの知識を得たいと思ってももう遅いのだ。

ただ、自動車保険の場合掛け金はたいていは天引きなので全く意識をすることなく事故の場合に備えることはできるが、リベラルアーツの場合はそうではない。常に、先の見通しもつかない焦燥感を抱きつつ、自分の貴重な自由時間を割き、学び続けるしかない。それも数か月や1、2年と言った短期間ではなく、5年あるいは 10年という長期スパン相当の覚悟をもって継続する必要がある。

結局、この2つの観点から私は、日本の将来を担うリーダーはリベラルアーツを学ぶべきだと考えている。本当のリーダーが必要とするのは、単に小手先の技能・知識ではなく、リーダーとしての覚悟、それとリーダーに相応しい器量と識見である。

続く。。。
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