限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【座右之銘・72】『工欲善其事、必先利其器』

2012-08-23 21:53:38 | 日記
徒然草は大学入試の古文の問題として定番であるので、だれしも馴染みのある本であろう。私も40年前の受験勉強の時に何回か通読してから兼好独特のアジのある文体が気にいって、時たま読み返す。高校生の時は、全文を読むのに1か月ほどかかっていたが、近頃では現代文と変わらないスピードで読めるようになった。内容を周知しているというより、むしろ古文の文法や言い回しに抵抗を感じなくなったせいだと思える。

しかし、そうかと言って大学の入試問題を読んで文法的に細かく説明せよ、と言われても正しく答えられない。ただ、古文を読んでいるときに文法を意識することなしに文意が自然と分かるのだ。それでは、高校生の時にちまちまと文法を勉強したのは無駄だったかというとそうでない。高校生の時に細かい文法規則を徹底的に覚えたおかげで、古文を読み解くベースができた。その後、暫くはこの文法知識に頼りにして文を解析しながら読んでいた。それが、あたかも自転車の補助輪なしに走れるように、次第次第に文法の規則を意識することなしに無意識の内に文法解析がなされ、その結果、文章の意味が頭にすっと飛び込んでくるようになったのだ。

これと同様の感覚は、英語、ドイツ語、フランス語の文を読んでいる時に感じる。さらに言えば、この3つの言語で、前の2つ(英語、ドイツ語)は文法の規則をほぼ完全に理解しているのに対し、フランス語はそうではない。その文法理解の差が文章理解の深さだけでなく、会話力の差にも如実に反映している。この経験から私は、語学学習にはなによりも先ず、文法を徹底的にマスターすべきだと考えている。高校生にとって、大学受験はそういった細かい文法規則を強制的に覚える恰好のチャンスである、とポジティブに考えて欲しい。



さて、徒然草の思想背景は、仏教、儒教、老荘の3つであると言われている。兼好は法師であるので、当然のことながら仏教的観点からの意見が多いが、私は個人的には兼好はむしろ老荘に傾斜しているのではないかと感じる。例えば、第82段には、『物事は完璧にしない方がよい』との趣旨の文が見える。
 「すべて、何も皆、事のととのほりたるは、あしき事なり。し残したるをさて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。内裏造らるるにも、必ず、作り果てぬ所を残す事なり」と、或人申し侍りしなり。先賢の作れる内外の文にも、章段の欠けたる事のみこそ侍れ。

これは、五経の一つ、易経の中に見える句、『亢龍有悔』(亢龍に悔あり)の意味であろう。つまり『頂点を極めるのはよろしくない。頂点の一歩手前で満足しておくべき』という処世の知恵である。
また、第229段からも上の文と同じく、彼の老荘趣味がよくわかる。
 よき細工は、少し鈍き刀をつかふといふ。妙観が刀はいたくたたず。

しかし、この兼好の意見に対して、儒教の中心書である論語(第15・衛靈公)で、孔子はまるっきり反対の意見を述べている。
 工欲善其事、必先利其器。(工、その事をよくせんと欲せば、必ずその器を利とす。)

意味は、『職人が立派な仕事をしたいと思ったらまず道具を研ぐ』というのだ。

しかし、孔子はなにも職人の道具の話をしようとしているのではない。これは、次の文を言い出すための露払いにすぎない。
 『居是邦也、事其大夫之賢者、友其士之仁者』(この邦に居るや、その大夫の賢者につかえ、その士の仁者を友とする。)

つまり、孔子の言いたかったのは、『職人が仕事前に丹念に道具を研ぐように、士たるものは国の賢人や仁者を慎重に選び出して師や友としなければいけない。』ということだ。

ついでに言えば、孔子のこの言葉を敷衍したのが、後漢の王符の『潜夫論』(巻2・本政)に見える次の文である。少々長いが、引用してみよう。
 そもそも天は国の基であり、君主は民を統率する者である。臣下は君主が政治を行う道具である。論語にもいうではないか、『工欲善其事、必先利其器』。同じ趣旨で、天下を太平にするには、先ずは陰陽(天候)を整えることだ。陰陽を整えるには、先ずは天の心に従うことだ。天の心に従うには、先ずは民を安心させることだ。民を安心させるには、まずは政治を行うに適格な人を選ぶことだ。結局、国家存亡と国の安定は人選の良しあしに懸っている。
(原文:夫天者國之基也,君者民之統也,臣者治之材也。工欲善其事,必先利其器。是故將致太平者,必先調陰陽;調陰陽者,必先順天心;順天心者,必先安其人;安其人者,必先審擇其人。是故國家存亡之本,治亂之機,在於明選而已矣。)

『工欲善其事、必先利其器』とは職人の道具の話ではなく、国家の盛衰は人選にあり、という極めて高次元の話であった。こういう言い回しがいわゆる『此言雖小、可以喩大』(この言、小なりといえども、もって大を喩うべし)と言われ、中国人が得意とする論法だ。
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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2017-09-20 10:12:01
先生
わかりやすいご説明、ありがとうございます。
参考させていただきます。
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