限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

翠滴残照:(第26回目)『読書レビュー:教養を極める読書術(その25)』

2022-01-30 21:47:50 | 日記
前回

〇「古典の読み方」(『教養を極める読書術』P.231)

「古典を読みなさい」とは数多くの識者が声をそろえて言う。私も同意見だが、進める理由は異なる。識者が古典を進める理由の多くは「立派な本であるから、読むことで立派な人格が形成される」というものであろう。この意見に反論することは極めて容易だ。世界の文明の主要国では数多くの古典(例:聖書、コーラン、論語、ヴェーダ)が数多くの政治家や知識人によって読まれてきたが、それらの国には数えきれないほどの残虐な戦争や酷い汚職があったことはちょっとでも歴史読めばすぐに分かる。「医者の不養生」の諺にも該当する「古典読みの悪徳者」のような諺もつくれそうだ。つまり、古典を読むことで立派な人格になるという論理は必ずしも成立しない。しかし、その半面、古典を読んで立派な人格を形成する人もいる。

結局「古典を読むから立派な人格になる」のではなく「常日ごろから立派な人格になろうという意識をもっている人が古典の文章に触発される」のである。つまり、主役は古典という本にあるのではなく、読む側の人間なのである。古典という枠にとらわれずに、類似の現象を考えてみよう。例えば、音楽、絵画、建築、彫刻などの美術に全く関心の無い人にとっては、たとえ世界最高級の素晴らしい作品であっても、一時的には感動を覚えるかも知れないが、それによってその人の美術感性が向上することはないだろう。一方、これらの方面に元から強い関心を持っている人は、ちょっと見ただけで、それら作品の素晴らしさの真髄を掴みとってしまう。

この差はどこから来るのだろうか?

偏差値教育が常識化した現代の日本人は、人の理解力を知能の観点からしか見ない傾向が強いが、元来、人は「知・情・意」の三要素の合成であるので、知だけでなく他の二要素の情や意も勘案する必要がある。つまり、上に挙げた場合では「意」(意志の力)が一番大きな役割を果たす。要は人の人格形成には読書という受動的なものより、自からの心の底から上がってくる向上心という能動的なものが重要だということだ。

結局、本書『教養を極める読書術』はいろいろと書いているが、読む主体の自分がどのような人間になりたいのか、何を知りたいと思っているのか、という内発的・自発的な目的なしには読書をしても効果が薄い、ということを述べるのが眼目の書であった。


出典:京都大学の門

この点に関しては、他人事ではなく、私自身強烈な体験があるので、その話をしよう。

今から約半世紀前の大学受験の時のこと、工学部志望であったにも拘わらず私は化学が大の苦手であった。高校の化学は暗記すべきことが多いので面白くもなく、また概念もよく理解できなかった。京大を目指していたので当然、化学は試験科目に入っていた。余りに化学が悪いので、最悪0点でも合格できるよう、他の科目で合格点を取ろうという作戦で3年の10月まで頑張っていたが、やはり化学が0点では合格は難しいのではないかと考えなおした。それで、作戦を変更し、他の科目は完全に遮断して、11月からは化学だけを毎日勉強することにした。

初めの数週間は教科書を読み、基礎問題だけを解いていったが、なかなか成果は見えなかった。しかし、12月の半ばごろから急に化学の全体構造が分かるようになり、問題集のレベルを挙げても正答率が良くなった。それと同時に、問題を解ける快感も味わえるようになった。正月が過ぎ、1月半ばまでで化学をほぼ完璧に理解できるようになったので、ようやく人心地がついた。当時、国立大学の受験は3月初旬であったので、残りの1.5ヶ月は急いで他の科目のおさらいをした。今はどうか知らないが、当時の京大の化学は基礎的な設問だらけで、難問はほとんどなく、合格者の平均点は 85点近辺と言われていた。私のやっつけ勉強でもこの点は取れたのだった。

このように書くと、何なら老人の自慢話を聞かされているように思われるかもしれないが、本論はここからだ。

さて、京大入学当時は、化学に関しては苦手意識が完全に払拭されていて、大学の化学の授業もよく分かった。ただ、授業内容はあまり面白くなかったので、徐々に興味を失っていった。当初は、それほど感じなかったのだが、1年の終わりごろになるとまたまた化学の知識がなくなっているのに気づいた。何やら淡雪が溶けてなくなってしまったような感覚だった。この一方で、数学や物理は高校の時から好きであり、また得意科目であったので、知識が溶けてなくなるということは全くなかった。それどころか、大学数学の定番の教科書である高木貞二の『解析概論』で解析関数に関する理論、とりわけコーシーの留数定理などで有名な複素線積分は非常に興味深かかったので、何度も読み返した。(もっとも、高木貞二の『初等整数論講義』は面白くなく、途中で放棄した。)その後、工学部に進学してから流体力学を学ぶようになって複素関数が大活躍する場面に遭遇した時には、高校卒業以来、ほとんど使う機会のなかった三角関数の定理などはすらすらと思い出して使うことができた。この経験から、私自身を実験台として 1年も経たずに雲散霧消した化学に関する知識と、手入れもせず放っておいてもしっかりと残っていた数学・物理の知識の差は知能ではなく「意」(Will)であることを私は確信したのであった。

半世紀も前のことを長々と述べたのは、私自身の体験から、興味を感じないものを強制的にやったところで、付け刃にしか過ぎず、効果は持続しないということを述べたかったからだ。このことは読書においても同じだ。人と自分の好みが異なるのであるから、当然、知的興味も異なるはずだ。本書の題の『教養を深める読書術』の極意を一言で述べるならば「世間でいうベストセラーや有識者の推薦する本ではなく、自分の興味の赴くままに『知の探訪』をするのがよい」という事になる。

【参照ブログ】
【麻生川語録・34】『発情期を待つ読書法』

 
(了)


続く。。。
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