限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

通鑑聚銘:(第35回目)『ローマからの使者、来訪す』

2010-04-08 00:04:50 | 日記
東西の両帝国、後漢とローマの交流は通常、 AD166年(延熹9年)にローマ皇帝のマルクス・アウレリウス・アントニヌス(Marcus Aurelius Antoninus:漢名、大秦王、安敦)が後漢の桓帝の下に使節を派遣したことに始まるとされている。

その時の様子は、後漢書には
『大秦國王、遣使奉獻』(大秦國王、使を遣じ、奉献す)
とそっけなく記されているに過ぎない。この時、アントニヌスの使節は、象牙、犀角、玳瑁(ウミガメの甲羅)を献上した、と言われる。



しかし、実はローマからの一行はこの記事よりも数十年前に、ミャンマー(緬甸、旧国名・ビルマ)の王の使者とともに後漢に来ているという記述が資治通鑑に見える。

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資治通鑑(中華書局):巻50・漢紀42(P.1607)

永寧元年(AD120)の、十二月に永昌、徼外禅の國王、その名を雍曲調というのが、使者を遣わして、音楽隊と奇術師(幻人)を献上した。(徼外禅の禅は本当は手偏)

永寧元年十二月,永昌徼外禅國王雍曲調遣使者獻樂及幻人。

永寧元年、十二月,永昌、徼外禅、国王、雍曲調、使者をつかわし、楽、及び幻人を献す。
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胡三省の注には、この本文に続いて次の文が見える。
『西南夷傳:幻人能變化、吐火、自支解、易牛馬頭,自言我海西人,海西即大秦也。今按大秦即武帝時犂軒國,今謂之拂菻』

ここの情報は次の二つ:

【A】 幻人というのは、口から火を吐き、体をぐにゃぐにゃにしたり、牛の頭を馬の頭にすりかえる手品をしたりする。

【B】使者は、自分達は海西人だと言っていたが、海西とはすなわち大秦のことである。大秦とは昔、武帝時に犂軒(りけん)と呼んでいた国であり、現在(元朝)では拂菻(ふつりん)と呼んでいる国のことである。

結局、彼らは、拂菻から来たとのことであるが、この拂菻とは、諸橋大漢和の巻5のp.168よると、東ローマ帝国の首都、Constantinopleとの由。その遼遠たる道のりを思うと果たして無事に帰国できたのか気になる。
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