★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

価値を追う

2023-02-21 21:01:39 | 文学


藤壺、「あなうたてや。なじに、かうは。梨壺ものし給ふめれば、男にてあらば、さしも。小宮の御もとへもまうで通ひ給ふべかなれば、このほどに、さることあらば、それこそは。世の中、定めなければ、必ずとも思はず」。


誰が皇太子になるのか、何が起こるか分かりませんよと忠告するあて宮(藤壺)であった。こんなことは普通考えたら当然であり、あえて言わなくてもわかることであろうが、あんがい、簡単に我々の認知の歪みは起こって興奮してしまう。親や子どものことになると我々は我を失いがちである。もちろん、相手のことを喜んでではなく、自分のこととして喜んでしまい、自分の子どもや親のことはどうでもよくなってしまうのである。婚活や終活でもなんでもいいが、こういうものが合理性のもとに盛んになると、ますます周りの親や子どもが合理的に犠牲になるようになる。自分の葬式のために、生きている人間の都合はどうでもようなるのが人間であり、――かんがえてみりゃ、古墳やピラミッドをみればわかりそうなものだ。

ChatGPTが話題である。グーグルが頭の悪い弟子がこんなに情報がありますと指導教員の机に資料を山のようにもってくるようなものだとすれば、それは、ちょっとネジの外れた「何でも答える指導学生」という感じであろう。しかし、これは合理性に基づいているマシンである点で、少しは使い物になるばかりか、つつがなく進行する自分の葬式みたいなものであって、ますますわれわれにとって他人のことはどうでもよくなることを意味している。

わたくしはさっそくちゃっと何とかに萬葉集の解釈困難なところからさっさと答えてもらおうかと思ったが、伝聞によると、おそらくまだ伊藤博氏よりも優れているとはとても思えないのでやめた。そもそも、ちゃっとなんとかに限らず、グーグルでも何でもいいが、そもそもの問題は、なんでもかんでも答えてしまうことにある。普通に考えてみてくれよ、そんな奴が信用出来るかというね。

問題は、ちゃっと何とかに何かを奪われるのではなく、どうせちゃっと何とかに我々が知らぬ間に似てしまう方がいつも問題なのだ。あるいはもう似てるからそいつをつくることも問題だ。で、最終的にはいつも似ても似つかん怪物になってゆくのが人間だ。

今一生氏の『よのなかを変える』に書いてあったが、「当事者固有の価値」と絶望や体験を「価値」と呼ぶことが大事で、たいがい、事例とか無視された側面とか呼んでしまうのだ。われわれが人間である、つまり当事者であることは固有の視角をもつことではない。それがつまらなかったりするものの、価値を持つことが重要だ。佐藤進一氏の『日本の中世国家』を読むと、鎌倉殿の13人みたいな、親子の葛藤みたいな自然的価値しかないような世界で、法律や支配の方法を巡って知的な攻防があって、やはり彼らも価値を巡る戦いをしていたと分かる。

我慢しろみたいな教育がだめというのは、みんなの価値を発揮してみたいな、――言っていることはわからんでもないが、右翼・左翼的な「抵抗」にかぎらず、民主主義のプロセスなんかほぼ我慢だらけなんだし、幇間たちのプロセス偽造や歴史修正なんか爆弾でつぶすわけには行かないんだから、我慢して徐々に潰すしかない。しかし、その我慢しながらの行為には価値がある。我々は、そう思いたくないのか、個性の発揮みたいな瞬間にしか価値を感じなくなりがちである。日置氏の書いた、芥川龍之介の「地獄変」論をこの前読んでいて思い出したんだが、最近ジャンヌ・ダルクのイメージが、最後の火あぶりまで含まれずに、女ナポレオンみたいになってきてないかということであった。ジャンヌの一生から火あぶりに至るプロセスを抜いたらもうそれは価値がなくなる。芥川龍之介はもう少し、「地獄変」や「奉教人の死」を長く書くべきであった。

我々は、しかし、そんな価値に耐えられないことは多い。上の貴族たちも自分を自分の子孫の価値に預けるわけだ。絶対に頭を下げませんみたいな学者が本物の抵抗者や本質的な批判者であったためしはない。学会やなにやらが自分にとっての権威なのでほかに頭を下げられなくなっているだけであった。また、若手に仕事を押しつけまくったあげく、最後に自分がそれをやりました的なことをお偉方に吹き込んで去って行くのはいわゆる幇間みたいな人間に限らない。静かに学問だけをやっている風な人間でもそうなりかねない。どことなくカッコをつけているような人間は謙虚そうに見えても危険なのだ。それにしてもいまどきの肩書き付きの人たちというのは自分の責任にして頭下げるみたいなことほんとにしなくなった。頭下げるのは対外的なものであっても、内部への行為なのに。お前のためには絶対本気で仕事はしねえよとほとんどの人間に思われるのに、ほんと頭が悪くなったものだ。しかし、それも組織に浸透する自分の価値を信じられないがためだ。

価値はシンプルに輝くものなのか、複雑に輝くものなのか。

作品によって永遠を得るか、自分が遺伝子で生き延びるのか、果たしてどっちが複雑さをうるか、――といった無常なことを考えつつ『方法叙説』を読んでいたら日が暮れた。