★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

宮中のフィルター

2023-02-03 18:27:56 | 文学


それよりはじめて、上まで御唱歌して、帝、「遅しや」とのたまふ。涼・仲忠久しくありて、楽、心とどめて仕まつる。神泉の南風は、驚かしく凝々しくて、今宵の細緒風は、高く厳めしく響き、静かに澄める音出で来て、あはれに聞こえ、細き声、清涼殿の清く涼しき十五夜の月の隈なく明かきに、小夜更け方に、おもしろく静かに仕うまつる。帝よりはじめ奉りて、涙落とさぬ人なし。


唱歌とは楽器の旋律を譜で唱えることで、民謡にも謡にもこういうさあゆくぞみたいな部分がある気がするのだが、調べていない。これにくらべるとクラシックの音楽はたいがい沈黙を最初に置く。確かにここでも、「久しくありて」演奏が始まるのでおなじようなものかもしれないが、帝が唸って「遅いなあ」と嘯く、これが重要な気がするのであった。

天皇の嘯きを圧倒し、みんなの涙をさそう琴の音は天と繋がっている。にも関わらず天皇の前でより違った洗練の仕方をみせて響いている。このような神性の分有みたいな現象を、源氏物語なんかは受け継いでいないようだ。そこにあるのは血の宿命なのである。文学史の面白さは自分も永い間生きてみないと案外分からないところがある気がする。平安時代の傑作群が案外時期的に密集していたかもしれないところなんか興奮させられる。蜻蛉日記とそのあとの女たちの物語の時期的な距離感はおもしろいし、いったい宇津保はどのように読まれていたのだろう。中上健次なんかをよんでると、宇津保はなんか神代のものに近い感覚を持つが、紫さんたちにとってもそんなに遠い時期に書かれたのではない。われわれにとっての中上のようなものなのである。

よくわからないが、宮中というのにいまの大学ににたフィルターがかかっていたことも事実のような気がする。作品は宮中ないしはそれに近い環境でかかれながら、生々しくは受容されない。例えば、大学の世界では、面接ではたいがい愛読書を聞いてはいけないことになっておるのだが、勝手に「わたしはボードレールの「貧乏人を殴り倒そう」が大好きです」と言われてどういう反応を返したらよいのかのほうは決まっておらぬ。わたくしが言って居るフィルターの存在とはそういうもので、外からはかかっていないが、うちからはかかっている。