★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

空隙のなかの人間について

2023-02-26 23:05:32 | 文学


「我、女子多かる中に、この子、生まれしよりらうたげなりしかば、懐よりといふばかりに生ほし立てて、いかで、これをだに、人並み並みにと思ひしに、ある時は体面に面立たしき時もあり、ある時はいとをかしき時もあり来しに、なほ、いかでと思ひて持たりしに、これによりて、人の恨みも負ひ、いたづらになるといふ人も聞こえ、しひて宮仕へに出だし立てたれば、安からずうらやまれ言はれし人のかく人笑へに恥を見むを見てやは、世にも交じらふべき」とのたまふほどに、「明日になりぬ」と言ふ。


藤壺の父である正頼はこうやって歎き出家しようとする。娘が宮中で帝に愛されると碌なことはない。それにしても、彼は「女子多」く――娘がたくさんいるのであった。多くの人々が一人に引き寄せられて行く、帝だけが引き寄せられるだけでなく、一人を選ぶ。正頼はいわば帝もどきの行動をとって娘をかわいがっていたのだが、竹取物語以来の帝の特権性が発揮されるときが近づいている。竹取物語の娘は、その発揮される瞬間に天にのぼっていったが、普通はそうはいかないのだ。というわけで、かわりに、自分が出家して世の中から離脱しようというのである。

近代とは違うが、ここでも群衆の時代は既にあった。

しかし、帝がすべてをかっさらうのと違って、近代では群衆は群衆自身によって全てをかっさらわなくてはならない。しかしこの群衆というものは決して「主体」たりえない。だから人間は結局、すべて力の行使を群衆に頼りながら、自らだけが群衆に匹敵する主体だと思い込もうとする自意識を持つことになる。天にはもういけないし、出家も禁じられている。ではどうするかというと、転向するのである。そこでそれが可能である空隙としてあらわれるのが、吉本隆明ではないが、「対幻想」の領域である。

結婚とか恋愛とかなんでもいいけれども、相手の希望をかなえてあげて喜ぶというのがある。そこで自分の人生を相手と共有してしてしまう、それがおもしろさでもあろうけれども、その点、自分の過去の考えとは別のことをしてしまうことはありふれているし、大概許される。上野氏にかぎらず、いろんな事はあったにちがいない。しかし、氏の場合、対幻想に籠もることは許されず、共同幻想(フェミニズム)のなかの人格をも保つ必要が出てくる。

確かに、人間、自分の意見だけで自分の人生を生きる訳ではない。役にたつ勉強とか言うのがふざけてるのは、お前が勉強の役に立てよという感じがするからだ。しかし、その投身みたいなものが主体性としてあり続けることは出来ない。